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コラム(graffiti)

落書きのような無形式のページです。 ウェブサイト古代文字資料館や種々の刊行物で書いた文章の転載もあります。
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『KOTONOHA』200号(2019.9.1)
 古代文字資料館が発行している機関誌『KOTONOHA』が2019年7月で200号を迎えた。 『KOTONOHA』は主に文字と言語に関する考察や資料解説を掲載している月刊誌で、17年間続いている。 100号発行の際には多くの人に執筆をお願いして盛大に祝ったが、今回の200号は“普通に”通過した。 日々の散歩やジョギングのように淡々と続けていこうということなのだ。 これまで古代文字資料館や『KOTONOHA』のことについてはすでに何度か書いたことがあるので、 『KOTONOHA』本体には200号を記念した文章は載せなかった。 古代文字資料館ウェブサイトの“スピン・オフ”と言うべき本サイトで、備忘録として古代文字資料館と『KOTONOHA』に関する歴史を記しておくことにする。

 とは言っても、『KOTONOHA』150号(2015年5月)に書いた「KOTONOHA第150号に思う」という文章に主だった事柄は書いたので、まずは以下にその文章を再録しておく。

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 古代文字資料館の機関紙たる『KOTONOHA』が今回で150号を迎えた。第1号の発行が2002年11月のこ とで、それ以降ほぼ毎月、12年半にわたって刊行され続けている。当初は100号を目標にしていたが、4年前 にあっさりとその目標をクリアすると、次は200号を目指すことになった。今150号に到達し、200号も徐々に頂 が見えつつある。この機会に『KOTONOHA』にまつわる諸々を振り返ってみたい。以下、『KOTONOHA』の 前史も含めて、年表風に記述してみる。

 1992年9月〜1993年2月 パスパ文字の勉強会。当時富山大学に在職していた中村が東京における半年 間の内地研修を許されたため、その期間を利用して吉池孝一氏と都立大学で毎週のように勉強会を開いた。 それまで吉池氏は中国語の呉方言を、中村は切韻系韻書を研究していたが、この勉強会を機に二人とも対 音資料に傾倒するようになった。

 1994年2月 第1回対音対訳資料研究会。上記パスパ文字勉強会を承けて、広く対音資料・対訳資料を対 象とした研究会として始まった。以後、2003年3月の第19回まで毎年2〜3回開かれた。中村、吉池のほか、 竹越孝、更科慎一、福盛貴弘の諸氏を主要メンバーとして、富山大学・都立大学・拓殖大学・鹿児島大学・ 愛知県立大学などで開催した。最後の第19回は金沢の「ことのは塾」で開かれた。「ことのは塾」は中村が 2002年9月に富山大学を辞した後に金沢で開いた私塾であるが、その塾の名が『KOTONOHA』という雑誌 名の由来である。(これについては本誌60号の拙稿を参照)

 2002年11月 『KOTONOHA』第1号刊行。この時点で古代文字資料館はまだない。発行母体は愛知県立 大学の吉池研究室であり、『KOTONOHA』誌も学生と教員が好きなことを書く同人誌であった。今では時に 学術誌のような扱いを受けることもあるが、本質はやはり同人誌であって、気軽にあることないことを書いてよ い雑誌なのである。もちろん、まじめな論文や資料も大歓迎だが、同時に論文の体をなさない半端な文章だ って全く構わない・・・と私は思う。それゆえ、当時の表紙には「‘言語に関わる考察の切れ端’を集めた雑文 集」と記されていた。

 2003年11月 「古代文字資料館」設立。2000年9月のことであったと思うが、対音対訳資料研究会が富山 大学で開かれた際、雑談の場で吉池氏がいくつかの古いコインをテーブルの上に出して見せた。パスパ文 字のコインと満州文字のコインであったと記憶する。普段我々が研究会で論じている文字が、生の資料とし て目の前にあることに興奮した。その後、吉池氏の収集癖に火が着き、わずか3年で「古代文字資料館」を設 立するに至る。初期の目玉は何といってもパスパ文字資料で、官印・私印・貨幣など、この文字に興味を持 つ者にとってはまさに垂涎ものというべき資料を展示した。後にはパスパ文字漢語やパスパ文字モンゴル語 の拓本資料なども加わり、今でもパスパ文字資料は古代文字資料館の柱の一つとなっている。1992年のパ スパ文字勉強会が古代文字資料館の設立に結実したと言えるかも知れない。資料館の設立以降は、 『KOTONOHA』も古代文字資料館を発行母体とするようになり、論考にも収蔵資料の解説が多く含まれるよ うになった。

 2004年7月 ウェブサイト「古代文字資料館」開設。資料をウェブ上に公開するだけでなく、『KOTONOHA』 の個々の文章をPDFファイルで公開することになった。90年代半ば以降にPDFが普及したことで、特殊文字 や画像などを通常の文章に混在させて、レイアウトを崩さずに表示できるようになり、 『KOTONOHA』のウェブ上での公開も可能になった。

 2007年8月 KOTONOHA単刊1として『清代満州語文法書三種』(竹越孝編訳)を発行。これ以後、古代 文字資料館の刊行物は「単刊」として発行されることになるが、これは単に便宜上の呼称であって、必ずしも 「モノグラフ」に限定されない。時折出る「発的な行物」と理解されたい。

2007年10月 単刊2『中古音のはなし−概説と論考』(中村雅之著)発行。

2008年10月 単刊3『語学漫歩選』(古代文字資料館編)発行。

2009年9月 単刊4『有坂秀世研究−人と学問−』(慶谷壽信著)発行。

2011年3月 単刊5『KOTONOHA百号記念論集』発行。当時の通常版は輪転機で印刷したB5版の紙を ホッチキスで留めただけの手作り雑誌であったが、100号を記念してISBNを付した正規の刊行物とした。執 筆者も13人に達した。特別に故長田夏樹氏の最初期の論考「日本語再建私説」を掲載できたのも幸いであ った。

2012年12月 単刊6『KOTONOHA 2012』発行。この年から、それまで毎月小数部発行していた 簡易印刷版を廃止し、年末に1月号から12月号までの一年分をまとめた合本の形で発行することになった。月刊の 『KOTONOHA』はウェブ上のPDFファイルのみとなった。

2013年12月 単刊7『KOTONOHA 2013』発行。

2014年12月 単刊8『パスパ字漢語資料集覧』(中村雅之主編)発行。

2014年12月 単刊9『KOTONOHA 2014』発行。

2015年4月 単刊10『新刊清文指要 ―翻字と翻訳―』(竹越孝著)

 以上が『KOTONOHA』をめぐる簡史である。この間、多くの研究者や学生に執筆して頂いた。 最も多く執筆したのはこの雑誌の発起人でもある吉池氏で、最近まで毎号に書いていたが、昨年大学で責任ある役職 に就いて以来多忙を極め、ついに今年になって初めて休筆した。 竹越氏は朝鮮資料や満漢資料の紹介を中心に、9号以降一度も休むことなく書き続けている。 中村は見過ぎ世過ぎに追われ、年に3〜4回は執筆を見送っている。 竹越美奈子氏の広東語に関する連載は、10回続いた「十九世紀の広東語」を承けて、昨年から「二十世紀粤語研究」が始まった。大竹昌巳氏が断続的に発表している契丹語に関する論考も楽しい。 最年少の寄稿者は142号の乾佑真氏で中学生である。

 『KOTONOHA』が自由で刺激的な表現の場として150号を迎えたことは有難くも喜ばしい。目標の200号に 向けて多くの人々の参加、ご支援をお願いします。
(再録終わり)
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 その後のことを少し付け足しておこう。 2019年3月、吉池孝一氏の退官に伴い、愛知県立大学に間借りしていた「展示室」は撤収した。 ウェブサイトも大学のサーバーから民間のサーバーへと移転した。 また、毎年発行していた『KOTONOHA』合冊版は2017年版を最後に発行しないことになった。 したがって、『KOTONOHA』は現在サイト上のPDF版だけが存在していることになる。 大学から離れることによって活動はやや縮小したが、一面ではより自由になったとも言える。 雨にも負けず、風にも負けず、不羈の精神で月々の“お勤め”に励むとしようか。


deutschの語源とその周辺(2019.6.2)
 2004年から4年間、3度目の学生生活を送ったことがある。外国語学部だったので様々な外国語の授業に出た。 その中でも「ドイツ語学概論」は今でも記憶に残る授業である。古文献が専門の先生で、豊富な話題に夢中になった。

 ある時、たまたま白雪姫の話になって、「白雪姫は Schneewittchenと言うのですが、最近は標準ドイツ語風に Schneeweißchenという言い方もします。」と説明を始めた。「Schneeは英語のsnowですね。wittは英語のwhiteですが、 これは北の方言で、標準語ではweißと言います。それで白雪姫も標準語風にSchneeweißchenとしたものですが、 なんだか違和感がありますね。そういえば、語末の-chenは小さいものや可愛らしいものに付ける指小辞で北の言い方ですが、 南では-leinとか-elを使います。ですから、白雪姫は北のお話で、ヘンゼルとグレーテル( Hänsel und Gretel)は南のお話ということになります。」 こんな講義を毎週受けられるのは本当に楽しかった。

 ただし、この授業、前期と後期にA4用紙で4枚の長大な試験を行うほかに、4000字程度のレポートを課せられた。 私が書いたのは、前期が「nichtの位置について」、後期が「deutschの語源とその周辺」であった。 後者はブログ「lingua-lingua」に公開したことがある(2010.9.28の記事)。以下はその再録である。
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1.「deutsch」の語源

 「deutsch」という語が元来「民衆(の)」を意味する語であったことについては概ね明らかにされている。 しかし、細部においては不明瞭な部分があり、またドイツ語の専門家においてもしばしば誤解があるようである。
 渡辺格司『ドイツ語語源漫筆』(大学書林、1963)の「deutsch」の項には次のような説明がある。(下線は引用者)

  (…前略…)これに反して起源の明瞭なのは deutsch である。その意味するところは volksmäßig, volkstümlich, völkisch なのである。 八世紀末の文書に見られる theodisca lingua がドイツ語という句の最古の物だと Kluge が言っているが、当時はまだドイツ民族は自己を theodiscus と呼んだのではなく、 それぞれの種族が Sachsen, Friesen, Franken などと各自に呼んでいたのである。 しかしこの theodiscus から由来した ahd.diot, mhd.diet が『民族』の意味となり、『わしが國さ』というなつかしい調子を含んだ deutsch という語となったのである。 この語から派生して低地ドイツ語では dütsch と言い、英語では dutch となってゲルマン民族の一部なるオランダ人を指している。(…後略…)

 この説明ではラテン語の「theodiscus」から古高ドイツ語の「diot」が生まれたように読めるが、誤解であろう。 上に言及された Kluge のドイツ語語源辞典(Etymologisches Wörterbuch der deutschen Sprache)にもそのような記述はない。
 Kluge 辞書の「deutsch」の項には、「Volk(民衆)」を意味する古高ドイツ語の「diot 」や ゴート語の「þiuda 」、古英語の「þēod 」などは、ゲルマン祖語の「*þeudō 」に、 さらには印欧祖語の「*teutā」に遡ると記されている。 古高ドイツ語における形容詞形「diutisc」は「民衆語の/民衆語で」の意味を持っており、 それをラテン語式に表したのが「theodisce /theodisca lingua」であるという。 つまり、ラテン語の「theodisce /theodisca」は、古高ドイツ語「diutisc」をラテン語風に変換した語形(latinisierte Form)だというわけである。

 Kluge の辞書には、「theodisce /theodisca」の実際の用例あるいは文献については言及がない。 ただフランク王国においてそのようなラテン語表現があったと記すのみである。 この点に関して寺澤芳雄『英語語源辞典』(研究社、1997)の「Dutch」の項には、もう少し具体的な記述がある。(下線は引用者)

  (…前略…)形容詞は、8Cに St.Boniface (Wynfrith)の下にドイツで伝導した英国人たちが L vulgāris の訳語として用いたもので(cf. Theodisca lingua, c788), もとはラテン語に対して一般的に「民衆の話す卑俗な言葉」, さらにはゲルマン語系の「自国語」を表した.それがやがて「ドイツ語」へと限定され, 「ドイツ語を話す人々」へと拡大して, 12-13Cには国名として Duitisklant (=G Deutschland )が生じるに至った.(…後略…)

 これによれば、ラテン語形「theodisca」を創作したのはドイツ人ではなく英国人伝道師たちであったということになる。 確かに、古高ドイツ語「diutisc」よりは、古英語「þēodisċ」の方がラテン語形にずっと近い。 綴りの対応から見れば、「theodisca」というラテン語は、当時の英語(=古英語)の語形から英国人たちが創作したものと考えるのが穏当である。

 ところで、上の説明中、「theodisca (lingua)」という形容詞がラテン語で「民衆(語)の」を意味する 「vulgāris」の「訳語」であると述べているのは不思議な印象を与える。 ラテン語で記すのに、なぜ(ラテン語からラテン語への?)新たな「訳語」が必要なのか。 これについては次のように考えられる。「vulgāris」を用いると、 正規のラテン語に対する(同系の)俗語であるイタリア語などを表す可能性が高く、 ドイツ語などのゲルマン語を表すのに適切ではない。 そこで「ゲルマン語」を表すのに、ゲルマン語で「民衆語」を意味していた語からの転用を思いついたのである。 つまり、「theodisca lingua」という表現は語源から見れば「民衆語」であるが、 実際の使用においては汎用的な「民衆語」ではなく、あくまでも「ゲルマン語」を意図した表現だということになる。 したがって、寺澤(1997)が「theodisca」を「vulgāris」からの「訳語」と表現したのは適切ではなく、 正確には、「vulgāris」に対応するゲルマン語から新たに考案したラテン語が「theodisca」であったというべきであろう。

 ドイツ語「deutsch」や英語「Dutch」の語源については概ね以上であるが、 「theodisca」等の実際の用例については、上記の語源辞典からは得ることができない。 そこでインターネット上で検索してみると、次のようなものが見つかった。(下線は引用者)

  Ausdruck *theudisk ist zuerst in latinisierter Form in Quellen des späten 8. Jahrhunderts belegt: Erstmals erscheint theodiscus in einem Bericht über zwei englische Synoden im Jahr 786, den der päpstliche Nuntius Georg von Ostia an Papst Hadrian I. schrieb. Georg teilt darin mit, dass die Beschlüsse der ersten Synode auf der zweiten verlesen wurden tam latine quam theodisce, quo omnes intellegere potuissent (≫sowohl lateinisch wie auch in der Volkssprache, damit alle es verstehen könnten≪).(Klein, Mittelalter Lehrbuch Germanistik https://www.metzlerverlag.de/buecher/leseproben/978-3-476-01968-4.pdf)

 これによれば、786年のイギリスの司教会議の報告書に、 「[会議の決定は]すべての人が理解できるように、ラテン語でも民衆語でも (tam latine quam theodisce, quo omnes intellegere potuissent)読み上げられた」とあるのが、 ラテン語「theodisc-」の最古の用例であるらしい。 「theodisce(民衆語で)」は「latine(ラテン語で)」と対をなして副詞として用いられているが、 この場合の「theodisce」は当然、当時のイギリスの言語すなわち古英語を指すことになる。 以下に引用するオンライン語源辞典の説明も同様である。(下線は引用者)

  As a language name, first recorded as L. theodisce, 786 C.E. in correspondence between Charlemagne's court and the Pope, in reference to a synodical conference in Mercia; thus it refers to Old English. First reference to the German language (as opposed to a Germanic one) is two years later. The sense was extended from the language to the people who spoke it (in Ger., Diutisklant, ancestor of Deutschland, was in use by 13c.). ("Dutch." Online Etymology Dictionary. http://dictionary.reference.com/browse/Dutch)

 興味深いことに、ドイツ語の語源辞典ではラテン語形「theodisce / theodisca」の起源を古高ドイツ語と関連づけることが多く、 古英語との関連については多くを述べないが、一方、寺澤(1997)や上に挙げた Online Etymology Dictionary のような英語系の語源辞典では、 ラテン語の表現「theodisce / theodisca」などが英国人によって作られたこと、 さらに786年の初出例ではその語の指し示す所が「古高ドイツ語」ではなく、 「古英語」であることを積極的に記している。

 いずれにせよ、8世紀後半が「theodisce / theodisca」の初出ということになり、 この時期にはすでに古英語の「þēodisċ」や古高ドイツ語の「diutisc」が 自分たちの言語すなわち(英語やドイツ語など)ゲルマン語の意味で用いられていたことは明らかである。 しかし、英語ではその語は消え、ドイツでは「deutsch」として残った。 地方ごとの独立意識が強かったドイツでは、個別の地方名に結びつかないこの語を言語の名称とするのが便利であったためであろう。

2.「deuten」「deutlich」との関連

 下宮忠雄『ドイツ語語源小辞典』(同学社、1992)の「deutlich」の項には「原義:民衆(古ドdiot)にもわかるような。deuten(民衆にわからせる→知らせる、解釈する)に対する形容詞。Deutschと同源語。」という説明がある。一方、渡辺格司『ドイツ語語源漫筆』(大学書林、1963)には以下のような説明があり、ニュアンスはやや異なる。

(…前略…)deuten (解釈する)は deutsch をもって、したがって自国語をもって、一般にわかりやすく、述べるというところからきたのであって、古くは学者がラテン語を日用語に用い、庶民にはわかり難かった事もあわせ考えられる。bedeuten, bedeutend, Be-deutung, andeuten, deuteln などはこれから派生したものであるが、なかでも deutlich (明瞭な)は deuten の原意から派生したものであって、 Rede deutscher! (Schiller, Räuber, IV.5) は Rede deutlicher! の意味であることも、先に述べた説明から異論はないであろう

 解釈としては後者の方が妥当であるように思われる。 つまり、deuten の原意は下宮(1992)のような「民衆にわからせる」ではなく、 渡辺(1963)の説くように「民衆語(=ドイツ語)で述べる」であろう。 「deuten」の古高ドイツ語および中高ドイツ語での語形は「diuten」または「tiuten」であるが、 もともとは難解なラテン語を自分たちの「diutisc(民衆語)」で説明することが「diuten」であったと考えられる。 Kluge 語源辞典の「deuten」の項の説明の中に、古英語の「geþēodan」が「翻訳する」の意味だという記述があるが、 この古英語もラテン語から民衆語(=英語)への翻訳が原意と考えてよかろう。

 伊東泰治他編『中高ドイツ語小辞典』(同学社、1991)には、「diuten」と関連のありそうな語として「diutӕre,tiuӕre」(解説者、注釈者)と「diute,tiute」(解釈、意味解き)が挙げられている。 これらの語も、「ラテン語の解釈」が原意であったことを想像させる。

 ラテン語形「theodisce」の初出例に「tam latine quam theodisce」とあるように、「theodisce」(およびその基づくゲルマン語形)が「ラテン語」と対比する表現であったことは象徴的である。 古高ドイツ語の「diutisc」も古英語の「þēodisċ」も、原意は「民衆(語)の」であるにせよ、 8世紀には「難解なラテン語に対する平易なゲルマン語」という意を含んでいた訳である。 政治的な境界を越えてゲルマン系の民族が共有する言語の名が、「deutsch(<diutisc)」として定着したのも、その語に付随する「平易な日常語」というニュアンスの故であったかも知れない。


朝鮮語の学習(2019.5.9)
 40代の後半に3度目の学生生活を送ったことがある。還暦を過ぎた今思い返しても贅沢な時間であった。 以下はその時に受けた朝鮮語の授業の感想である。ブログ「lingua-lingua」の2005.10.16の記事より転載。
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 約20年ぶりに朝鮮語を学習している。テキストの秀逸さに加えて、担当の先生が素晴らしいため、非常に充実した授業になっている。 テキストは普通の書店では販売していない自費出版(?)で、飯田秀敏&イ・ウナ著『−楽しく確実に−韓国語を学ぼう 合本版』(2004.4.1発行)というものである。 おそらく飯田氏の勤務校である名古屋大学で長年にわたって試用し、改訂を重ねたものではあるまいか。 会話を中心とした8課構成で、文法説明と練習問題が豊富にあり、独習書としても十分に使える。

 担当の先生は30代半ばとおぼしき女性であるが、授業の進め方が上手く、熱心で、なにより朗らかである。 相原茂氏のエッセー集『午後の中国語』に、語学教師は朗らかでなければならないと記されていたように記憶するが、彼女を見てまさにその通りだと実感した。

 毎回宿題を課し、小テストを実施する。 受講者はA4の紙を三角に折ったものに、自分の名前をハングルで書いて、先生に見えるように机の上に出しておく。 先生はそれを見ながら次々と当てて、テキストを読ませたり、質問に答えさせたりする。 本文の単語を覚えるために、表に日本語、裏にハングルが書かれた紙を掲げて、日本語を見てすぐに朝鮮語に訳す練習をする。 みんなで輪になって、リズムを取りながら、順に数字を言ってゆく。 間違った人は1分間スピーチを課せられる。

 20年以上前には、朝鮮大学校の国語研究所の老先生から習った。 非常に厳格な、言語学的な授業であった。 文法はロシア語文法の用語で説明されることがあり、「これは造格です」などと平然とおっしゃる。 また中国音韻学の用語も飛び出し、「昔は日母を表す字母がありました」などと、これも平然と言う。 この先生の授業はいわゆる教養としての語学であり、今考えても贅沢な内容であった。 当時は私自身も、語学学習には実用よりも知識を求めていたこともあり、その意味でもニーズにあっていたと言える。

 外国語の学習には、英語教育における長年の論争に見られるように、実用と教養のいずれに力点をおくか、という問題がつきまとう。 たっぷり時間をかけられる場合には、読み、書き、聞き、話す、の4技能にまず重点を置き、その後で、その言語の歴史や文化背景、あるいは細かな音韻や文法の問題に目を向けてゆくことになるだろう。 しかし、週に1コマの授業ではその全てをこなせるはずもなく、教師は選択を迫られることになる。

 現在受講している朝鮮語のクラスでは、受講者の大半が韓国ドラマをきっかけに学習を始めた人たちであるから、 ニーズとしても実用的な部分が求められているわけだが、 適正規模をはるかに超える人数に対して、しかも週に一度の授業で、片言ながらも1分間のスピーチを可能にしてしまう、これこそ現代の語学教師に求められる技術というものかも知れない。


JK若菜とアラサー葵(8)(2019.3.9)
若菜:アオイ先生は細川ガラシャって知ってます?

葵 :明智光秀の娘ね。大河ドラマでは色々な女優さんが演じているけど『功名が辻』の長谷川京子が私のイメージに近かったかな。

若菜:日本史の授業のテーマが本能寺の変だったんですけど、その時光秀には玉(たま)という美しい娘がいて壮絶な人生を送ったという話になったんです。彼女がキリスト教に改宗した時の洗礼名が「ガラシャ」なんですけど、イマイチ響きが美しくないような……。「ガラシャ」ってどういう意味なんでしょう?

葵 :「恩寵」と訳すことが多いけど、平たく言うと「神の恵み」ということ。ポルトガル語では「ガラサ(graça)」と言って、「ガラサ満ち満ち給ふマリア」という有名なオラショ(祈祷)の一節にも出て来る。「ガラシャ」という発音はスペイン語の「gracia」に由来するらしい。

若菜:どうしてポルトガル語ではなくてスペイン語?

葵 :確証はないけど、たぶん彼女の入信を取り計らったセスペデス神父がマドリード出身だったからではないかしら。ちなみにスペイン語では「gracia」の複数形「グラシアス(gracias)」は今でも「ありがとう」の意味で普通に用いる。ついでに言えば、イタリア語で「ありがとう」を意味する「グラツィエ(grazie)」も「恩寵」を意味する「grazia」の複数形。

若菜:なるほど。でもポルトガル語の「graça」にしても、スペイン語の「gracia」にしても、どうして「グラサ」「グラシア」ではなく、「ガラサ」「ガラシャ」になるんですか?

葵 :そう聞こえたからでしょ。我々が「グラシア」というのは文字を見てから帰納した発音。文字なしで聞けば「ガラシャ」に近く聞こえてもおかしくない。私が大学で受けたスペイン語の授業で、先生が「gracias」は「ガラシアス」というつもりで発音した方がいいと話していたのを思い出す。「g」と「r」の間にはもちろん何の母音も入らないのだけれど、「グラシアス」という意識で発音するとどうしても母音が入り込みやすい。それに「g」を発音する時点ですでに口の形は「a」を発音する時の形になっているから、意識は「ガラシアス」で、しかし母音を挟まずに発音しなさいと言われた。逆に言えば、綴りを見ずに「gracia」の発音を聞けば「ガラシア」「ガラシャ」に聞こえても何の不思議もない。

若菜:そんなもんですかね。

葵 :古くにオランダ語から入った「ガラス(glas)」も「ガ」になっている。近代以降に英語から入った「グラス(glass)」は綴りから帰納したものでしょうね。

若菜:それじゃ、例えば後ろの母音が「gri-」になれば、「ギリ」と聞こえるということ?

葵 :そう。だからポルトガルの「Cristo(Christo)」は「キリスト」になったし、1600年頃に作られたカトリックの教義問答集は「どちりな・きりしたん(Doutrina Christã=英語Christian Doctrineに相当)」と称した。ポルトガル語の「tri」の部分が「ちり」になっている。ほかにも、ポルトガル語の「Inglês」は「イギリス」になって、オランダ語の「Engels」は「エゲレス」になった。ともに英語の「English」に相当する語だけど、語頭に強勢があるために、母音のない子音間にも語頭の母音を補う形になっている。

若菜:「英国」とか「英語」というのはどこから来たのでしょう?

葵 :もとは18世紀の中国で「English」の音訳として「英吉利」という表記が生まれて、日本でも19世紀にはその表記が入った。「英吉利語」の略称として「英語」ができたのは1820年代の中国が最初らしい。こういう当たり前のことが分かったのは割と最近で、田野村忠温という人が去年「言語名「英語」の確立」(『東アジア文化交渉研究』11)という論文を書いてから。

若菜:へえ。時代小説を読んでいると「英吉利」に「エゲレス」という振り仮名があるのをよく見ますけど、それは江戸晩期のことなんですね。それ以前は何と呼んでいたのでしょう。

葵 :口語では「イギリス」「エゲレス」でしょうけど、書物では「諳厄利亜(アンゲリア)」というのが多かったようね。これは中国で活動したイタリア人宣教師のマテオ・リッチが刊行した世界地図『坤輿万国全図』(1602年)で用いた表記だけど、ラテン語の「Anglia」の音訳。「英吉利」に取って代わられるまでは「諳厄利亜」がイギリスを指す表記だった。

若菜:もしかしたら「英国」ではなくて「諳国」」となっていたかも?

葵 :そうかもね。それにしても「英吉利」は「English」の南京官話音による音訳、それが日本で用いられるとそれを「イギリス」とか「エゲレス」と“訓読み”するようになった。訓読みの中でもなかなかファンキーな例ね。

若菜:そもそも「訓読み」って何なのでしょう?

葵 :音読みは漢字の本家である中国での発音を日本語訛りで取り入れたもの。訓読みはその日本語訳。

若菜:「木」の場合は「き」が訓読みで、「モク・ボク」が音読みですね。

葵 :その通り。英語で言えば、「tree」を「木(き)」と読めば訓読みだし、「ツリー」と読めば音読みということになる。

若菜:「tree」に対する「木(き)」は訓読みというより訳ですけどね。つまり、漢字に一定の訳が定着したものが訓読みということか。

葵 :そう。だから対応する訳がなければ音読みだけで訓読みはない。

若菜:ん? 訓読みのない漢字というとあまり使わない難しい字ということですか。

葵 :そうとも限らない。例えば「絵」は何と読む?

若菜:訓読みが「え」で、音読みが「絵画」の「カイ」ですね。

葵 :いや、実は「え」も音読み。「一期一会(イチゴイチエ)」の「会(エ)」と同音ね。「エ」も「カイ」も音読みで、訓読みはない。

若菜:へえ。

葵 :もっとも、「絵(え)にかく」を語源とする「えがく」が和語と認識されて、「描」の訓読みになるほど、相当古い時代から日本語に入っていたのでしょうね。

若菜:ふむふむ。細かいことですが、「えがく」の語源は「絵をかく」ではなくて「絵にかく」ですか?

葵 :「えがく」は「人物をえがく」「自然をえがく」のように「〇〇をえがく」と言うでしょ。つまり、意味的には「〇〇を絵にかく」から来ている。それに「かく」の部分が「がく」と濁るのはその前に「に」があった証拠。

若菜:どういうことですか?

葵 :「〇〇を●●する」を語源とする動詞は「を」が消えても後ろが濁らない。絵をかく人を「絵描き」と言って「かく」の部分が濁らないのは、「絵をかく」から「えかく」という動詞が(理論的には)できて、その連用形(=名詞を形成する)が「えかき(絵描き)」になったもの。「絵にかく」からできた動詞は「えがく」という風に濁る。

若菜:他にも例はありますか?

葵 :そうね、「めつけ(目付)」と「めだつ(目立つ)」なんかもそうかな。「目付」の語源は「目を付ける(=監視する)」だし、「目立つ」の語源は「目に立つ」。だから「に」が消える際に後ろが濁音になって「めだつ」になった。「蚊取り線香」の「かとり(蚊取り)」なんかも「蚊を取る」が語源だから濁らない。「てどり(手取り)」は「手に取る」が語源だから濁る。

若菜:面白い! でも「に」の時にははどうして濁音になるのでしょう?

葵 :それは日本語の濁音の本質に関わる問題ね。例えば、/menitatu/の母音/i/が消えて/mentatu/になると、鼻音のnが後ろを有声音に変えて(=濁らせて)/mendatu/となり、現代の/medatsu/になった。

若菜:鼻音が後ろを濁らせるんですか?

葵 :そう。鼻音というのは声帯が振動するだけでなく、/m/なら唇、/n/なら舌先など広範囲が振動するから、後ろの子音にもその振動を伝えやすい。声帯の振動を伴うのが音声学でいう「有声音」つまり濁音。試しに「ハーッ」と息だけを吐いてみると、のどは全く振動しないけど、「アー」とか「ムー」と言うとのど(つまり声帯)が振動しているのが分かる。古い漢字音なんかにも鼻音の影響で後ろが濁るものがよくある。

若菜:例えば?

葵 :「天井(テンジョウ)」「群青(グンジョウ)」「金色(コンジキ)」など。「井・青」は音読みが「ショウ・セイ」でもともと濁音ではない。「色」も「シキ・ショク」でやはり清音。ところが「天」や「群」が/-n/で終わり、「金」が/-m/で終わっていたから、後ろが濁って(=有声化して)しまった。

若菜:う〜む、濁音の前に鼻音あり、ですか。

葵 :それが濁音の重要な一面。

若菜:一面ということは、別の面もある訳ですね。

葵 :そう。でも今日はやめておく。あなたも今年は受験生でしょ。こんな話に深入りすると、受験に差し支えるわよ。

若菜:あー、アオイ先生らしくないお言葉! 受験勉強なんか放っておいて、好奇心のままに突き進みなさい、って言うのかと思いましたけど。

葵 :それは私の心の声ね。私の座右の銘は「外面似菩薩(ゲメンジボサツ)、内心如夜叉(ナイシンニョヤシャ)」だから。

若菜:つまり、菩薩のような顔で「受験勉強がんばって」とか言いながら、内心では「ありきたりの人生を送るな、言語の森の住人になれ」と思っていると。

葵 :ふふ、でも受験に失敗しても自己責任だからね。

若菜:あ、夜叉のセリフ!!


JK若菜とアラサー葵(7)(2019.2.23)
葵 :あなた最近忙しそうね。部活?

若菜:はい。来月書道部で卒業生を送るための展示会があって、私は秦の権量銘(けんりょうめい)を書くことになったんですけど、なかなか良い拓本の図版がなくて、書体がつかみ切れないんです。Wikipediaに乗っているのはこんな感じです。

葵 :秦の権量銘とはずいぶん渋いのを選んだわね。

若菜:いや、自分で選んだんじゃなくて、卒業する先輩が「お前もそろそろ篆書(てんしょ)をやれ。権量銘なんか分量も手ごろだ」というので、やる羽目に。

葵 :書道関係の書物では権量銘の拓本は一つか二つ収められるだけで、文字も不明瞭なものが多いから、それを臨書するのは大変かもね。私の持っている『中国古代度量衡図集』という本を貸してあげようか。

若菜:度量衡図集?

葵 :権量銘というのは「権(=おもり)」とか「量(=ます)」に記された銘文でしょ。中国歴代の度量衡の図版を集めたのが『中国古代度量衡図集』。その秦代の度量衡には銘文の拓本もいろいろと収めてあって、文字の確認には役立つわよ。まあ、権量銘は始皇帝の時代の大篆(だいてん)を知る唯一の資料群だけど、小篆(しょうてん)よりは古風だから気合を入れて臨書することね。

若菜:…えーと、私の認識だと権量銘の書体が篆書(=小篆)なんですけど、アオイ先生は今「大篆」って言いました?

葵 :あなたの知識はどこからのもの?

若菜:いやいや、どの本にもそう書いてありますよ。『漢字キーワード事典』の「小篆」にも、Wikipeidiaの「権量銘」にも。戦国時代の秦の書体が大篆で、それを少し改良した始皇帝の時代の書体が小篆、そして小篆の代表的な資料が権量銘、つまり分量をはかる升や、重さをはかるおもりなどに刻まれた文章だって。書かれているのも、始皇帝が天下を統一して度量衡も統一したという内容だと。

葵 :まあね。秦代の出土資料で、しかも重さや分量の標準器に記された文字だから、秦の標準書体だった小篆だろうというのは発想としては健全だけど、ただの思い込みね。実際に文字を一つ一つ比較してみれば小篆でないことはすぐに分かる。小篆の書体は後漢に作られた『説文解字』という字書で確認できるし、始皇帝の時代に建てられたいくつかの石碑の(宋代の模刻の)拓本なども参考にできる。それらと秦の権量銘の字体はかなり違う。

若菜:例えば?

葵 :いくつか例があるけど、決定的なのは「則」【上の写真では左から3行目の第3字】ね。小篆は楷書体と同様に左が「貝」だけど、権量銘では「鼎」になっている。『説文解字』には「鼎」を用いる字体が「籀文」(=大篆)だと明記してある。実際、大篆の実例とされる「石鼓文」という戦国時代の碑文では「則」の左が「鼎」で記されている。ほかに「安」【写真4行目の第4字】なんかも権量銘の字体は『説文解字』とは違っていて、「石鼓文」と同じ。

若菜:それじゃ、いろいろな概説書や辞書に書いてある権量銘の説明は間違いですか? そんな単純なことがどうして分からなかったんでしょう?

葵 :よくあることよ。単純な思い込みほど訂正されない。

若菜:うーん、思い込み……ですか。

葵 :例えば、英語を習いたての頃、「明けましておめでとう」を「Happy New Year !」って覚えなかった?

若菜:もちろん、覚えました。

葵 :あれも、一種の思い込みね。実際には「Happy New Year !」は1月2日以降は使えない。

若菜:え、どうして?

葵 :この場合の「New Year」は「New Year's Day(元旦)」のこと。つまり、「幸せな元旦を(お過ごしください)」という挨拶ね。ちょうど「Merry Christmas !」が「楽しいクリスマスを」というのと同じ。12月26日に「Merry Christmas !」って言ったら笑われるでしょ。1月2日に「Happy New Year !」というのも同様におかしい。12月の中頃になると、街角でよく「I wish you a merry Christmas, I wish you a merry Christmas, I wish you a merry Christmas and a happy New Year.」という歌が流れるでしょ。もしも「Happy New Year !」が「明けましておめでとう」だったら、12月に言うはずがない。

若菜:なるほど。中学の時に英語を使うのが嬉しくて、年賀状によく書いていたので、日本語の「明けましておめでとう」と同じものだと思い込んでいました。英語の「Happy New Year !」が1月1日以前、日本語の「明けましておめでとう」が1月1日以降に使うといことは、1月1日だけが奇跡的に両方を使える日ということですね。

葵 :まあ、言葉については様々な思い込みがあるものだけど、権量銘の文字をのほほんと小篆だと信じ込んできた漢字学者たちは怠慢のそしりを免れない。

若菜:でも、権量銘はどうして小篆ではなくて大篆で書かれたのでしょう?

葵 :一種の権威付けかな。読売新聞の新聞名が「讀賣新聞」と旧字体で書かれるのと同じで、伝統的な字体を用いる方が権威があるような気がするのじゃないかしら。それに始皇帝が天下を取ったばかりの時期にはまだ小篆という書体が整理されていなかったかも知れない。銘文を伴った標準器は秦代の初期から二世皇帝の時期まで何度も作られるけど、最初に大篆を用いてからはずっとそれに則ったのだと思う。

若菜:なるほど。でもアオイ先生がいろいろな言語に興味を持っているのは知ってましたけど、古代の漢字にも詳しいのはどうして?

葵 :大学で中国文学を専攻したの。厳密には中国古典語学というべき“小学”という分野だけど。

若菜:…えーと、私の記憶違いでなければ、確かアオイ先生はフランス文学を専攻したのでは?

葵 :仏文学専攻を卒業した後、中国文学専攻に入り直した。

若菜:おやまあ。

葵 :文字資料の愛好者には大学は最も快適な環境だからね。

若菜:言語の森に入り込むと抜け出せなくなるというのはそういうことでしたか。

葵 :少なくとも真っ当な社会人が歩む道ではない。世俗の仕事をしないという意味では、僧侶が出家して修行するようなものだね。私は奨学金を一種の“お布施”だと理解している。スポーツ選手や研究者というのは、一般の人々ができない“修行”をしている訳だから、それを支えるお布施が不可欠。ところが最近ではそのお布施たる奨学金に利子を付けて返済させているらしい。嘆かわしい!

若菜:……でも、アオイ先生は教職に就いたたから返済免除じゃないですか。

葵 :しかし完全免除までこの苦行があと10年も続くと思うとね。はやく自由の身になってまた“出家”したい。

若菜:ふふ、大学に入りなおすんですね。ご苦労様です。合掌。


JK若菜とアラサー葵(6)(2019.1.29)
若菜:アオイ先生、古文を音読する方法について質問があるんですけど。

葵 :何かしら?

若菜:確か、中学3年の時だったと思うんですけど、松尾芭蕉の『奥の細道』の冒頭を読んだことがあったんです。その時の先生は出だしの「月日は百代(はくたい)の過客(くわかく)にして、ゆきかふ年もまた旅人なり」の「ゆきかふ」の部分を「ゆきこー」と読んでいて、古文の「かふ」とか「かう」は「こー」と読む習慣だと言っていた気がします。でもこの前、アオイ先生の授業では「ゆきかう年も」という風に読んでましたよね。アレッ?て感じたんですけど、どちらが正しいのでしょう?

葵 :古文の読みには正解はない。あるのは習慣だけ。昭和の終わり頃までは「ゆきこー」という読みが圧倒的だったけど、今では「ゆきかう」もかなり増えてきた。私は確信犯的に「ゆきかう」と読むことにしている。

若菜:それはまた何故?

葵 :関西弁が苦手なの。

若菜:えっ? 「ゆきこー」は関西弁ですか?

葵 :まあね。少なくとも東の言い方ではない。「こーた(買った)」とか「おーた(会った)」というのを聞くと、首筋がくすぐったくなる。勘弁してーという感じ。

若菜:意外! でもいいんですか、国語教師がそんな方言差別をして。

葵 :生理的なものだから仕方がないわね。関西人には申し訳ないけど。

若菜:そもそも、どうして「ゆきかふ」が「ゆきこー」になるんでしょう?

葵 :大雑把には/kaɸu/>/kau/>/kɔ:/という変化ね。

若菜:えっと……平安時代にハ行は語中で/w/になって、その後ア段では/wa/のまま、それ以外では消えるんでしたね。だから、すべての/ーaɸu/は/-au/を経て/-ɔ:/になってしまうのですね。あれ?でも現代日本語で「行き交う」は「ゆきかう」ですよね。変化の第2段階で止まっています。

葵 :それが東の日本語。今は東京の発音が一応標準だから、西で起こった/kau/>/kɔ:/の変化は反映されない。

若菜:それって例外なしですか?

葵 :いや、例外のない規則はない。どっちつかずのものも多いし。「ありがとう」は「ありがたく」から「ありがたう>ありがとー」となった関西風の表現だけど、関東にも入り込んでしまった。「尊ぶ」は旧仮名遣いでは「たふとぶ」だけど、関西風の「とーとぶ」も関東風の「たっとぶ」も生きている。それに漢字音では/kau/>/kɔ:/の変化が例外なく反映されていて、これは関東でも同様。現代仮名遣いでは「オウ」型になる。「高(カウ>コウ)」「甲(カフ>カウ>コウ)」。

若菜:漢字音というと漢字の音読みですよね。漢字音では関西も関東も/kau/>/kɔ:/という変化が起きたのに、和語では関西でのみ同様の変化が起き、関東では/kau/のままだった。漢語と和語で変化の違いがあるのはどうしてでしょう?

葵 :それはなかなか難しい問題ね。一般的に言えば、同じ条件の音声は同じ変化をする。鎌倉時代に/kau/>/kɔ:/という変化が起きた時、関西では漢語でも和語でも同じ変化が起きた。それが関東では和語で起こらなかったということは、関東では鎌倉時代になっても和語の/kaɸu/>/kau/という変化がまだ起こっていなかったということになる。だから、関東では/kau/>/kɔ:/は漢語でのみ起きた変化だった。その後、和語で/kaɸu/>/kau/という変化が関東でも起きたけど、その時点では漢語はすでに/kɔ:/になっていた。

若菜:つまり、「かふ」を「かう」と読むようになったのは、関西で平安時代、関東で鎌倉時代以後ということですか。

葵 :まあ、理論上はそう考えれば説明はつく。資料の裏付けはないけど。

若菜:ところで、松尾芭蕉は伊賀上野の生まれということですから、本人は関西方言の話し手です。とすると「ゆきかふ」も「ゆきこー」と読んだはずですから、我々もそう読むべきだということにはなりませんかね?

葵 :それも一つの立場ではあるけど、実際問題として古典作品のすべてをそれができた当時の発音でよむというのは不可能に近い。江戸時代ならまだしも、鎌倉時代以前だと正確な発音は絶望的に分からない。私はむしろ、古典全般について、文字表記を尊重しつつも現代語として不自然でない発音でよむというのがいいと思う。「ゆきこー年」という言い方は少なくとも私にとっては不自然極まりない。語中のハ行をワ行で読む以外は文字通りに読むというのが一番落ち着く。でも、これはあくまで私の感覚なので、NHKの古典朗読で「ゆきこー」と読むことを否定はしないけど。

若菜:関東ではなぜ和語の「かう」が「こー」にならなかったんでしょう?

葵 :おそらく和語に限らず関東ではそもそも/kau/>/kɔ:/のような変化は起こっていないんじゃないかしら。漢語の読みは関西発信で関東にも伝わっただけだと思う。

若菜:どうして関東では/kau/>/kɔ:/とならなかったのですか?

葵 :/u/の音価が関西と関東では違う。関西では[u]に近かったけど、関東では唇の丸めが弱くて、[ɯ]のような発音だった。関西では/au/が/u/の円唇性に引きずられて/ɔ:/になったけど、関東ではそれを誘発する円唇性に乏しかったと言える。近代になって入ってきた外来語は東京や横浜を窓口にしたために、原語の/au/が/a:/になったものが多い。これも関東の/u/があまり丸めを帯びていなかったから。

若菜:具体的にはどのようなものですか?

葵 :例えば、「チャーハン」とか「ラーメン」。「炒飯」の「炒」はもともと「チャウ」だけど「チャー」になり、「ラーメン」は広東語の「柳麺(ラウメン)」が「ラーメン」になったもの。これらはおそらく横浜の中華街から入った言葉ね。ちなみに「シウマイ(焼売)」も広東語。

若菜:英語から入った言葉はどうですか?

葵 :「カウボーイ(cowboy)」を「カーボーイ」と言ったりする例がそれにあたる。さらに「アウン」が「アーン」を経て「アン」になるものも多い。「グラウンド>グランド(ground)」「ファウンデーション>ファンデーション(foundation)」など。いずれも/au/が/a:/や/a/になったのは、東日本では/u/が唇の丸めを伴わない弱い音だったことが原因でしょうね。

若菜:なるほど。それで東日本出身であるアオイ先生は、「ゆきかふ」を意地でも「ゆきこー」と読みたくない訳ですね。

葵 :そういうこと。まあ、歴史的に文化的優位に立ってきた関西への僻みもかなりあるけどね。東北の片田舎の出身である私は、関西人が公の場でも関西弁を捨てようとしないことを忌々しく思うことがある。歴史的に政治や文化の中心であることが長かった関西の人たちが自分たちの言語や習慣に誇りを持って、それを守ろうとする気持ちは理解できるし、少しは羨ましいとも思うけど、あの関西アクセントにはどうしても馴染めない。

若菜:言語オタクのアオイ先生にも弱点があったとは! “センセ、お茶でもどないどすか。甘いもんギョーサンこーて来ましてん。”

葵 :(耳をふさいで)聞こえない、聞こえない。

若菜:ははは。


JK若菜とアラサー葵(5)(2019.1.5)
若菜:昨日、現代文の授業の宿題で上田敏の『海潮音』という訳詩集を読んだのですけど、なんだかグッときちゃいました。

葵 :上田敏の訳は格調高くて口調もいいわね。でも言い回しが古風なので若い人には意味が取りにくいかも知れない。

若菜:そうなんですよ。カール・ブッセの「山のあなた」とポール・ヴェルレーヌの「落葉」が課題だったんですけど、辞書を引き引き読みました。「山のあなた」は、
  山のあなたの空遠く
  「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。
  噫(ああ)、われひとと尋(と)めゆきて、
  涙さしぐみ、かへりきぬ。
という始まりなんですけど、「とめゆく(=たずねて行く)」とか「さしぐむ(=涙ぐむ)」なんてほとんど古語じゃないですか。

葵 :そうね。でも世界観はそれほど複雑ではないでしょ。山の向こうに「幸せ」があるというので、人と一緒にたずねてみたが、「幸せ」には会えず泣いて帰った。まあ、新ロマン派の彼らしい詩かしら。もっともドイツではカール・ブッセはほとんど無名らしいけど。

若菜:そうみたいですね。日本では落語で三遊亭圓歌の噺のネタになったことで一層有名になったとか。うちの父親に聞いたら知ってましたよ。「山のあな、あな、あな」なんてマネしてました。

葵 :ヴェルレーヌの「落葉」の方はどうだった?

若菜:言葉自体は難解ではないんですけど、今ひとつイメージが湧かないというか。
  秋の日の
  ヰ゛オロンの
  ためいきの
  ひたぶるに
  身にしみて
  うら悲し。
この「ヰ゛オロン」ってバイオリンのことでいいんですよね。

葵 :そうね。「ヰ」はワ行イ段の片仮名で、平仮名は「ゐ」。現在では「ウィ」の方が普通の表記だから、「ヰ゛オロン」も「ヴィオロン」になる。これは「violon」というフランス語で英語の「violin」にあたる。

若菜:どうしてバイオリンが出て来るのか、分からないんです。一体誰が引いているんでしょう?

葵 :ああ、そういう風に考えると分からなくなるわね。ここでのバイオリンは風の音の比喩なの。フランス語の原文は、
  Les sanglots longs
  Des violons
   De l'automne
  Blessent mon coeur
  D'une langueur
   Monotone.
というのだけど、「ヴィオロン(violons)」の部分は複数形になってる。つまり、秋に吹く風を「秋のヴィオロン」と表現している訳。上田敏は「秋の日の ヰ゛オロンの」としたけど、堀口大学の訳では「秋風の ヴィオロンの」となっていて「風」という字を入れている。まあ、その訳でも「ヴィオロン」が「風」の比喩だということが分かるかどうかは微妙だと思うけど。

若菜:なるほど。もしアオイ先生だったら、何と訳します?

葵 :そうね、分かりやすさを求めるのなら、「秋風の ヴィオロンの様な すすり泣き 切なき調べ 胸を刺す」かな。何だか演歌の歌詞みたいで、格調さのカケラもないけど。

若菜:いやいやご謙遜を。アオイ先生、高校の時にスペイン語をかじったという話でしたけど、フランス語はどこでやったんですか?

葵 :大学でフランス文学を専攻した。

若菜:それは初耳!

葵 :大学に入学してから受けたフランス語の授業が面白くて、そのまま仏文学専攻に進んだの。大学に入った最初の一年はフランス語のテキストをひたすら音読していた。フランス語や中国語は標準発音が明確だから、音読練習には適しているし、実践していても気分爽快になる。英語は変種が多すぎて、標準発音がない分だけ音読してもあまり爽快感はないかな。

若菜:まあ、それは分かる気がします。ワタシなんかも教材ごとに手本とする発音が違うので、自分の発音もどんどん変わっていって、モヤモヤ感はありますね。

葵 :ところで、私の方の授業の課題はやってるかな。

若菜:王維の「送元二使安西(元二の安西に使いするを送る)」ですね。これ、とってもいいです。情景が目に浮かぶようで。もう暗記しちゃいました。
  渭城朝雨浥輕塵(渭城の朝雨 軽塵をうるおす)
  客舍青青柳色新(客舎 青青 柳色新たなり)
  勸君更盡一杯酒(君に勧む 更に尽くせ一杯の酒)
  西出陽關無故人(西のかた 陽関を出ずれば 故人無なからん)
何と言っても出だしが最高です。「渭城の街に朝の雨が降って、舞っていた土ぼこりもしっとりと落ちついた。」この渭城というのは長安の近くですか?

葵 :そう。渭水を隔てた隣同士。陝西省は周代から歴代の都が置かれた土地なの。始皇帝の秦は咸陽に都を置いて、続く前漢の劉邦は咸陽と渭水を隔てた南側に長安を造って都とした。その際、咸陽を渭城と改名したので、唐代の王維の時代でも渭城と呼ばれたけど、現在ではまた咸陽市に戻っている。安西に赴く友人である元二を渭城の旅館で見送る詩ね。安西は今の新疆ウイグル自治区のクチャのあたりだから、長安からは遥か遠くだわね。結句で「西の陽関から先には知り合いもいないのだから。」とうたうのも無理はない。

若菜:アオイ先生は今、「西の陽関」と訳しましたけど、「西出陽關」は「西の陽関を出る」でいいんですか?

葵 :いいの。漢文訓読では「西のかた」と読む習慣だけど、これは分かるようでよく分からない。ここは、文法的には「西」が副詞で、動詞の「出」にかかるので、そこだけ切り取ると「西に出る」ということだけど、意味的には「西」は目的語の「陽関」にかかる。つまり、「西の陽関を出る」ということ。

若菜:でも「西」が文法的には動詞にかかるのに、意味的には目的語にかかるってアリですか?

葵 :日本語でもあるわよ。例えば、「小脇に抱える」「小首をかしげる」の「小」は文法的には接頭辞で「脇」「首」にかかる訳だけど、実際には動詞にかかる。「脇に少し抱える」「首を少しかしげる」という意味。まさか「小脇」とか「小首」という部位がある訳はないでしょう。

若菜:なるほど。こういうのはどの言語にもあるんでしょうか?

葵 :あるわね。英語なら、「The poor old man lost his only son. (気の毒にその老人はひとり息子をなくした)」の「poor」は文法的には「老人(old man)」を修飾する形容詞だけど、意味的には「ひとり息子をなくした(lost his only son)」という動詞句にかかる。だから日本語では「気の毒に」と副詞的に訳さざるを得ない。

若菜:ほうほう。でもどうしてこういうことが起きるんでしょう?

葵 :一種の強調というのか、気持ちの前のめりというのか。要するに、細かいことを言う前にニュアンスを伝えたいという表れなんじゃないかしら。

若菜:気持ちの前のめり?

葵 :つまり、「出陽関(陽関を出る)」という表現を言う前に「それは西なんだ」という気持ちを全体にかぶせて先に言っちゃう。すると「西出陽関」。「脇に抱える」ということを言うのに、「ほんの少しだけ」というのを全体にかぶせて先に言うと「小脇に抱える」。「The old man lost his only son.(老人はひとり息子をなくした)」と言う時、「可哀そうなんだ」という気持ちを先に言っちゃうと「The poor old man lost his only son. (気の毒にその老人はひとり息子をなくした)」になる。

若菜:ふむふむ。つまり、強調したい言葉を文頭に持ってくる時に文法的な矯正を受けて、仕方なく副詞や接頭辞や形容詞で表現されるということですね。

葵 :あれま、すばらしいまとめだわ。いつの間にか言語の森の住人になってたのね。

若菜:……なんだか片足を棺桶に踏み入れてしまったような気がするんですけど。

葵 :まあ、それは否定しない。でもね、数学を楽しむにはその面白さに反応するアンテナが必要なように、言語や文字のことを楽しむにも特殊なアンテナが必要なの。あなたにはそのアンテナがありそうよ。

若菜:アオイ先生、何だか悪質な訪問販売員のような顔してますよ。

葵 :ふふ。


書評:『ジョン万次郎の英会話』(2018.12.15 ブログ「lingua-lingua」の2010.2.25の記事より転載)
 乾隆著『ジョン万次郎の英会話 』(Jリサーチ出版、2010年2月2日発行)。書店で立ち読み、というか熟読してしまった。本書には「英米対話捷径 復刻版・現代版」と副題が付されている通り、ジョン万次郎こと中浜万次郎の手になる英会話教本『英米対話捷径』(1859年)の写真版とそれを現代風に見やすく翻刻した部分からなる。さらに巻頭には万次郎の生涯と、その英語力などについての要を得た解説が付されている。

 『英米対話捷径』は約200の日常表現からなり、英語本文の右にカタカナで発音、ひらがなで逐語訳を並べたものである。中国明代の対音対訳資料である各種「華夷訳語」を彷彿とさせる作りであるが、逐語訳の部分に漢文風の返り点が付いている点が日本風であって、歌の文句ではないが「いとしさと、せつなさと、心強さ」を感じさせるのである。「you」に対する訳語が「あなた」であったり「おまえ」であったり、時に「おまん」であったりするから、万次郎自身が一挙に書き下ろした教本というより、弟子(?)が折々に聞き書きした資料をまとめたのであろう。

 巻頭の解説で面白かったのは、万次郎が伝えた英語のカタカナ表記は本書以外にも多く知られているが、それらは万次郎が書いたものではなく、取り調べをした役人たちが記したものだという指摘である。そしてそのような表記を逆に、万次郎が参考にしたのではないかという。14歳で漂流し、アメリカで教育を受けた万次郎は、日本では寺子屋にも通ったことがなかった。したがって、帰国してから相当の努力で日本語の読み書きを修得したと思われるが、「good」を「グーリ」とするような英語のカタカナ表記も、そのような学習の結果であったかも知れない。

 万次郎の生涯については、中浜博氏や中浜武彦氏など、万次郎の子孫たちによる詳細な記述があるが、本邦初の英会話教本が本書によって手軽に見られるようになったのは何とも嬉しい。


JK若菜とアラサー葵(4)(2018.11.24)
若菜:アオイ先生、在原業平(ありわらのなりひら)の「月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして」の意味は古来議論百出して定論なし、って言ってましたけど、こんな有名な歌の意味が定まらなくていいんですか?

葵 :いいの。そもそも歌なんて聞く人の解釈に任されているのだから、たとえゆがんだ解釈やひねった解釈をしたって一向に構わない。

若菜:でも「や+連体形」の係り結びですから、形式的には疑問を表すのですよね。素直に疑問のままで「月は(昔の月では)ないのか、春は昔の春ではないのか」でいいような気がするんですけど、やれ詠嘆だとか反語だと言い張るのは余計なお世話というか……。

葵 :素直なアナタらしい意見ね。まあ、いろいろな解釈ができるというのもその歌の魅力の一つなのだから、あまり目くじらを立てる必要はなし。ところで、井原眞理子という先生がこの業平の歌の英訳を集めていて、そこにはやはり様々な解釈があって面白い。

まずは素直な解釈。
Is this not the moon ?
And is this not the springtime,
the springtime of old ?
Only this body of mine
the same body as before . . .
(Helen Craig McCullough. Brocade by Night: ‘Kokin Waka Shu’ and the court style in Japanese classical poetry. Stanford: Stanford University Press, 1985.)

若菜:これ、これですよ。何だかしっくりきます。

葵 :次のは反語風の訳ね。
Can it be that the moon has changed ?
Can it be that the spring
Is not the spring of old times ?
Is it my body alone
That is just the same ?
(Geofforey Bownas and Anthony Thwaite. The Penguin Book of Japanese Verse. London: Penguin, 1964.)

若菜:やたら疑問符が多くて分かりにくいです。

葵 :次は反語からさらに進んで強い肯定として訳したもの。
Surely this is the moon,
surely this spring
is spring of years past ?
or am I the only one
the same as before?
(Hiroaki Sato and Burton Watson. From the Country of Eight Islands: An Anthology of Japanese Poetry. New York: Anchor Books, 1981. )

若菜:うーん、ストンと納得できる感じがしないんですけど。でも実にさまざまですね。こうなってくると、確かにどんな解釈もありかなっていう気になります。ところでこの歌、出だしが「月やあらぬ」で字余りですよね。字余りって何か規則があるんですか?

葵 :もちろん。字余りは文字通り「字」が余っているのであって、音は余っていない。

若菜:ん??

葵 :昔の歌は本当に歌ったわけだから、語中にア行の音があるとその部分が長母音や二重母音のようになる。「月やあらぬ」は、「つーきーやーーらーぬー」となって、発声という観点からは五つの音のかたまりということになるから、五七五七七のリズムというか流れは乱されない。

若菜:つまり、余るべき字は常に「あいうえお」のどれかということですか?

葵 :そういうこと。だから「月やしづむ」などというのは許されない。これは平安時代までは厳格に守られている。思いつく字余りの歌をあげてみましょうか。
  (a)花の色は 移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
  (b)君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで

若菜:(a)は小野小町の歌ですね。第1句「はなのいろは」が字余りです。

葵 :歌う時には「のい」の部分を「のーぃ」のように二重母音として発声したということね。

若菜:(b)は国歌になってしまった「君が代」ですね。第3句「さざれいしの」が字余りです。

葵 :これも「れい」の部分を「れーぃ」と発声したわけね。ちなみに「いわお」はもともと「いはほ」なのでア行音ではない。

若菜:ところで、ア行の字が含まれると義務的に字余りになるのですか。

葵 :おや、いい質問ね。実は字余りの規則は時代が下るにしたがって緩くなることが知られている。奈良時代の万葉集は語中にア行の字が含まれると義務的に字余りになるらしい。私は全部確認した訳じゃないけど。平安時代の古今和歌集では字余りは任意になって、ア行の字が含まれていても字余りにしない例も多い。特に第2句と第4句にそういう例が集中する。鎌倉時代の新古今和歌集になると、もうア行の字以外の字余りも出てきて、字だけじゃなくて音も余っちゃう。西行の字余り好きは有名ね。

若菜:なーるほど。ところで、話は変わるんですが、(a)の歌は「ふる」が「経る」と「降る」の掛詞で、「ながめ」が「眺め」と「長雨」の掛詞だっていうことですけど、これってその場で歌われるのを聞いてすぐに分かったんですかね。

葵 :分からなかったとしたら、評価はされていないでしょう。古代人にとって言語というのは文字よりも音だから、現代人よりも音に対する感覚はずっと鋭敏だったと言える。だから掛詞やダジャレや押韻にはすぐに反応できたのでしょうね。

若菜:押韻?ラップでやっているようなアレですか?

葵 :そうだけど、現代の日本語のラップでは単なる母音合わせを韻と言っている。「さかな」と「わかば」とか、「なみだ」と「はしら」のように母音部分だけを合わせるのを韻を踏むと言っているけど、伝統的な日本語の感覚とは違うわね。

若菜:じゃ、伝統的にはどういう?

葵 :頭韻や掛詞で音のハーモニーを醸し出したのよ。都都逸(どどいつ)なんかではダジャレのような掛詞とか同じ語の繰り返しもよく使われる。

若菜:頭韻?

葵 :韻には脚韻と頭韻がある。有名なアメリカ独立戦争(1775年 - 1783年)時のスローガンの一つ「代表なくして課税なし」は「No Taxation Without Representation」で、「-ation」の部分が韻を踏んでいる。これが脚韻。それに対して、インテルのキャッチコピー「Intel Inside」は頭の「in-」が韻を踏んでいる。これが頭韻。面白いことに、その日本語版は「インテル、入ってる」で脚韻を踏んでいる。なかなか工夫したコピーだと思う。もっとも、日本語版が元で英語版の方が後らしいけど。

若菜:へえ、でも日本語の頭韻って、今ひとつイメージできないんですけど。

葵 :あら、アナタの好きな寅さんは啖呵売でよく言ってるわよ。都都逸だけど、「けっこう毛だらけ、猫灰だらけ、お尻のまわりは糞だらけ」とか、「信州信濃の新蕎麦よりも、わたしゃあなたのそばがよい」とか。

若菜:ははあ、最初のは「け」が頭韻で、「だらけ」が同じ語の繰り返し。次のは「し」が頭韻で、「そば」が掛詞ですね。こういうのを日常的に聞いていると、「我が身世にふる、ながめせしまに」を聞いて、すぐに掛詞だってわかる訳ですね。

葵 :押韻ということで言うと、少し驚いたことがある。アナタの年代だと、郷ひろみっていう歌手を知らないかしら?

若菜:知ってますよ。派手なアクションで「アチチ、アチ」って歌ってるオジサンでしょ。

葵 :そう、その「アチチ、アチ」は「GOLDFINGER '99」というタイトルで私が小学校を卒業する頃に流行ったんだけど、そのサビの部分「A CHI CHI A CHI 燃えてるんだろうか」が、実は原曲と韻を踏んでいることが高校生の時になって分かったの。

若菜:原曲?

葵 :そう。この曲、もとはリッキー・マーティンの「リヴィン・ラ・ヴィダ・ロカ」(Livin' la Vida Loca)っていう曲なの。サビの部分は「Upside inside out She's livin' la vida loca」という歌詞で、「もうハチャメチャ、彼女は狂った人生を生きている」という意味。最後の「la vida loca」はスペイン語で、英語だと「la」が「the」、「vida」が「life」、「loca」が「crazy」ね。リッキー・マーティンがプエルトリコの出身なのでスペイン語が混じっている。私は高校生の時にこの原曲を聞いて、アッと思ったの。サビの部分の「livin' la vida loca」と日本語版の「燃えてるんだろうか」がなんと韻を踏んでるではないか。「ダローカ」という響きが共通。日本語詞を担当した康珍化(かんちんふぁ)さん、やるなーと思った。

若菜:それは……何というか、康珍化さんていう人もシャレが利いていると思いますけど、それに気づく高校生というのもどうなんでしょう。アオイ先生、高校の時にスペイン語をやってたんですか?

葵 :ええ、スペイン語とエスペラントをかじってたわね。独学だからあまり突っ込んだ所まではできなかったけど。

若菜:ワタシも何か英語以外の外国語をやろうかな。

葵 :それもいいけど、日本語の本をたくさん読むべきね、高校生としては。

若菜:アオイ先生が言うと全然説得力がないんですけど!

葵 :私はほら、ある意味「la vida loca」を生きているから。ちゃんとした会社に就職しろとか、早く結婚しろとか、そういうつまらない圧力を軽く受け流す人でないと、受験の役にも立たない本当の学問は勧められないわね。もちろん、アナタにその覚悟があるなら、フランス語だろうが中国語だろうが好きなだけ参考書をあげるわよ。いつも言っているでしょ、鬱蒼とした言語の森に入り込んだら、もうありきたりの人生は送れないって。

若菜:なんだか学校がいつもの空間に見えなくなってきました。

葵 :「月やあらぬ」の心境ね。業平は恋する人の喪失によって、アナタは深遠なる知への興味によって、外界の景色が一変した。まあ、もう少し悩みなさい。人生はまだ百年近くあるから。

若菜:百年!!


JK若菜とアラサー葵(3)(2018.11.3)
若菜:アオイ先生、今日の授業の平家物語ですけど、出だしの「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)の鐘の声、諸行無常の響あり」について、先生は「これはまあ、ファンタジー的な仏教観ね」というだけで説明は一切なしだったんですけど、あまりに素っ気ないというか、つれないんじゃ?

葵 :だって、この有名な文章はいかにも仏教的な世界観を表現しているけど、実際には誰一人「祇園精舎」なんか見たことはない訳でしょ?そもそも釈迦が説法をしたという実際の「祇園精舎」には「鐘」があったかどうかも怪しい。日本でイメージする、ゴーンと鳴る鐘は中国起源のものだし。ところが、あろうことか十数年前に日本のある団体が「祇園精舎」の跡地近くに鐘を寄贈したのよ!平家物語のファンタジーを補完しようとした余計なお世話ね。

若菜:あっ、「祇園精舎の鐘の声」自体が全くの創作なんですね。鐘がないんじゃ、諸行無常の「響(ひびき)」もないですね。ところで「祇園精舎」って建物の名前って考えていいんですか?

葵 :寺院の名前ね。本当は「祇樹給孤独園精舎(ぎじゅぎっこどくおんしょうじゃ)」というのが正式名で、その略称。もちろん元々はインドの言語である梵語すなわちサンスクリットで「ジェータヴァナ・アナータピンダダスヤ・アーラーマ」というのだけど、それを鳩摩羅什(くまらじゅう)という西域のお坊さんが「祇樹給孤独園精舎」と訳したのを縮めて「祇園精舎」としたわけ。

若菜:……先生、また暴走してますよ。なんですか、その長たらしい「ぎじゅ……ナントカ」って?

葵 :祇園精舎はコーサラ国の太子ジェータの土地をスダッタという富豪が買い取って寄贈したものなのだけど、「祇樹」がジェータ(祇陀)の園林を意味する「祇陀樹(ジェータヴァナ)」の略で、「給孤独(アナータピンダダ)」はスダッタ長者のニックネーム(身寄りのない孤独者に食事を給したから)、「精舎(アーラーマ)」は精進して修行する学舎というところかしら。全体で「ジェータとスダッタの園林にある精舎」ということで「祇樹給孤独園精舎」と訳したものらしいけど、さすがに長い。「祇園精舎」なら短いし語呂がいい。

若菜:正確に訳そうとするとどうしても長くなる訳ですね。

葵 :そういうことね。でも仏教用語は概して長いから、多くの場合その省略形ができる。

若菜:例えば?

葵 :有名なお経「法華経(ほけきょう)」は正確には「妙法蓮華経(みょうほうれんげきょう)」。「妙(たえ)なる法のハスの花のお経」ということになるかしら。梵語では「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」、つまり「正しき教えの白蓮(びゃくれん)のお経」。その漢訳が「妙法蓮華経」。

若菜:「正しき教えの白蓮」?

葵 :つまり、「白いハスの花のように優れた正しい教え」ということ。優れたもの、正しいものの比喩として白蓮が用いられている。ちなみに、インドでは白い花を咲かせる白蓮を「プンダリーカ」、赤い花を咲かせる紅蓮(ぐれん)を「パドマ」と称して区別する。泥の中で清らかな花を咲かせる白蓮は仏教の精神に合うらしい。仏像もハスの花の台座に立っているし、あなたの好きな寅さんも「ドブに落ちても根のある奴は いつかは蓮(はちす)の花と咲く」って歌ってるじゃない。

若菜:いや、寅さんは私の父が好きなんです。まあ、その影響でワタシも結構見てますけど。でもそうか、「いつかは蓮(はちす)の花と咲く」は仏教のイメージにつながるんですね。でもアオイ先生、ただの言語オタクかと思ってましたけど、仏典にも詳しいんですか?

葵 :ただの言語オタクって、失礼な。大学の時にたまたま風間喜代三という偉い先生の授業で梵語の法華経を読んだのよ。先生が梵語を音読してから解釈をして下さるのだけど、授業が終わっても頭の中で梵語が響いてたわね。授業には比較言語学が専門の秦宏一という先生もチベット語版(!)の法華経を片手に学生と一緒に出ていたりして、濃密な授業だった。個人で英語版の法華経(The Lotus Sutra)を買って読んだら、やたらと易しく感じたのを覚えてる。一種のデトックスと言ったら、風間先生に申し訳ないけど。

若菜:アオイ先生の授業の後に佐伯泰英の時代小説が読みたくなるのと一緒ですね。

葵 :どこが!

若菜:今日の授業だって、完了の助動詞「り」は、サ行変格活用動詞の未然形(「せり」)と四段活用動詞の命令形(「咲けり」)に接続するって言ったましたけど、「咲け」がどうして已然形でなく命令形なのかについては説明を省くと言って授業が終わったじゃないですか。あれ、とっても頭の中がウネウネします。

葵 :ウネウネって何?まあ、気になるなら説明してもいいけど、上代特殊仮名遣いについての長いお話になる。それはすなわち言語の深い森に入り込むことよ。その覚悟はあるの?

若菜:うっ!!

葵 :さあさあ、どうする。鬱蒼とした森が口を開けてあなたを待ってるぞ。

若菜:……今日は止めておきます。


JK若菜とアラサー葵(2)(2018.10.18)
若菜:アオイ先生、今日英語の授業で出てきたんですけど、「ヴァン・ゴー」って何のことか分かります?

葵 :オランダの画家「ファン・ゴッホ」の英語読みでしょ。常識ね。

若菜:うっ!さすが言語オタク。じゃあ、「ヴィエナ」とは?

葵 :「ウィーン」の英語読み。中学生でも知ってる。

若菜:……ですよねー。でもどうして「ウィーン」なのかな?

葵 :ドイツ語の日本語なまりね。ドイツ語では「Wien」という綴りで「ヴィーン」という発音。 明治時代の日本ではw[v]の音をワ行で再現する習慣だった。「Wandervogel」は「ワンダーフォーゲル」、「Volkswagen」は「フォルクスワーゲン」。ちなみにロシア語のв[v]も日本ではワ行になる。 首都のМосква(Moskva)は「モスクワ」、極東のВладивосток(Vladivostok)は「ウラジオストク」。

若菜:いやいや、もう結構です。分かりましたから。本当にアオイ先生って言語のことになると暴走しますよね。 国語教師から言語の魔女に変身するっていうか、大魔神にみたいっていうか。

葵 :だから、そういう古い例えはやめなさい。大魔神は私が生まれる前の映画だから。

若菜:ふふっ、すみません、うちの父が好きなもので。そういえば、父が妙なことを言ってました。「俺が高校生の頃には北京のことを英語で「ピーキン」と言っていたんだ。最近は「ベイジーン」になっちゃったなあ」って。

葵 :そうね。昔は「Peking」という綴りで、発音は「ピーキン」だった。今でも古い英語教材の音声を聞くと出て来る。日本語の「ペキン」も英語の「ピーキン」も19世紀前半までの標準語だった南京官話の発音に由来する。現在の共産党の中国ができてから、北京語の発音に基づいた「Beijing」を国際的に使用するように呼び掛けた結果、欧米でも「ベイジーン」という発音が普及してきたというわけ。

若菜:日本ではどうして「ベイジーン」じゃないんですか?

葵 :中国と日本では固有名詞をそれぞれの国の発音で読むという暗黙の了解があるから。「東京」は中国では「Dongjing」と読むし、大阪は「Daban」と読む。日本では「北京」を「ペキン」、「上海」を「シャンハイ」、「香港」を「ホンコン」、「蘇州」を「ソシュウ」という風に、まあ好き勝手に読んでいる。

若菜:好き勝手?

葵 :「ペキン」は南京官話風に、「シャンハイ」は南京官話風ないし北京語風に、「ホンコン」は英語経由で広東語風に、そして「ソシュウ」は通常の音読みで読んでいる。

若菜:カオスですね。

葵 :まあ、それぞれの地名が日本人に馴染むようになった時代の情勢が影響している訳だね。でも中国だってあれだけ政府が「Beijing」を推奨したのに、かの「北京大学」のホームページには「Peking University」と出ていて、いまだに「Peking」が生きている。これも時代の産物。19世紀末にできたこの大学は1912年に「北京大学」という名前になるのだけど、その頃の知識人たちは南方出身者が多かったから南京官話の「Peking」の方が英語名にふさわしいと感じたのでしょうね。

若菜:中国の場合と違って、韓国の固有名詞は、日本でも韓国語風に読んでますよね。

葵 :「ペヨンジュン」とか「ムンジェイン」などの人名はがんばって韓国語風に読んでいるけど、「ヒュンダイ」とか「サムスン」なんかの世界企業の場合はちょっと微妙ね。

若菜:というと?

葵 :「現代自動車」は最初は韓国語風に「ヒョンデ(現代)」と言ってたけど、ローマ字表記「Hyundai」が広まった結果、日本ではそのローマ字読みの「ヒュンダイ」の方が正式な呼び名になったし、「三星電子」も最初は韓国語風に「サムソン(三星)」と言ってたけど、今では「Samsung」というローマ字をそのままに読んだ「サムスン」が公式の名称になっている。

若菜:そもそも何で「Hyundai」とか「Samsung」という綴りなんですか?

葵 :これは一種の英語風綴りで、なぜか韓国人がカッコいいと感じている表記法。公の機関が定めた綴りではないのだけど、スポーツ選手の名前とか企業名なんかでは頻繁に用いられる。その特徴の一つは、広い「オ」を「u」で表記すること。例えば、英語の「sun(太陽)」を日本人は「サン」と再現するけど、韓国人は「ソン」と再現する。そのため逆に韓国語の「ヒョン」とか「ソン」を「Hyun」「Sung」と綴るのが少し英語っぽくてカッコいいらしい。

若菜:でも、それを日本ではローマ字通りに読んで「ヒュンダイ」「サムスン」にしてしまったなんて。シュールというか、どんどん原語の発音から離れているような……。

葵 :それでも構わないの。日本法人の決定だから。だって「Hyundai」を「ヒョンデ」と読むよりは健全でしょ。

若菜:まあ、そうですけど。韓国の人は日本人が「ヒュンダイ」と言うのを聞いてどう思うんでしょう?

葵 :それは分からない。きっと、日本人の名前が英語で「ワラナービ(渡辺)」とか「ケニチ(健一)」と発音される時のようなムズガユイ感じがするのでしょうね。あるいは「東京」を「トキオ」と言われた時のような。

若菜:結局、ある言語の発音は非ネイティブには正確に再現できないということですかね。

葵 :あら、ちょっとプロっぽい発言ね。言語の森へようこそ。

若菜:え?いやいや、ワタシそんな鬱蒼とした森には行きませんから。英語だけで精一杯ですから。ホント!


書評:岡田英弘『中国文明の歴史』(2018.9.29 ブログ「lingua-lingua」の2006.2.17の記事より転載)
 岡田英弘著『中国文明の歴史』(講談社現代新書、2004年12月10日発行、740円)。 1983年に『民族の世界史5 漢民族と中国社会』(橋本萬太郎編、山川出版社)の中の一章として書かれたものを、増補改訂したもの。 「中国」という概念がいかにして作られたかを、諸民族の対立と統合から説く。 古来の中華思想的中国観を粉砕する、かなりアクの強い概説書と言える。 しかし、少し前までの中国史が必要以上に、「漢族」の歴史であることにこだわっていたことを思えば、北方の諸民族が「中国」の形成に果たした役割を積極的に評価する歴史観には胸のすくような心地よさがある。

 とは言え、アクの強さは相当のものである。時には、こんなことまで書いてしまって大丈夫?と読みながら、ハラハラする部分もある。岡田氏によれば、184年の黄巾の乱を境に、「中国人」と「中国語」が変質するという。中国語はもともとタイ系の言語を基層として、それにアルタイ系やチベット・ビルマ系の言語が影響して出来たものであるが、黄巾の乱以後、南北朝の時代を通じて、華北の支配者はすべてアルタイ系もしくはチベット系になった。そこで、それまで師から弟子へと伝えられていた漢字とその読み方の知識は、記録によって守られることになり、「反切」と「韻書」が考案されたという。

 その説の是非はにわかに判断しかねるが、「中国語」という概念を組み立て直すヒントになることは間違いない。


南朝四百八十寺(2018.9.20 ブログ「lingua-lingua」の2009.5.15の記事より転載)
 「江南春」などのタイトルでよく知られている杜牧(803−852)の詩の第三句が「南朝四百八十寺」である。 日本では伝統的に「ナンチョウ シヒャク ハッシンジ」と読まれている。 最近、松枝茂夫編『中国名詩選』(岩波文庫)でこの詩の解説を読んでいて、ギョッとした。 <四百八十寺>の五字が「みな仄声(去・入・入・入・去)で、sied-pak-puăt-ʒiəp-diəg という風になり、甚だ発音しにくい」と記されていた。 問題は、示された音価である。9世紀の詩にもかかわらず、なぜか上古音が!!

 事実は小説よりも……とはこのことか。 藤堂明保氏の『学研漢和大辞典』(学習研究社)には、各々の親字の下に中国語の上古音・中古音・近世音が記されているが、 その中古音を引用するはずが、誤って上古音を引用してしまったのである。 しかし、執筆者も編集者もそれに気付かずに出版され、今も版を重ねているというのはどういうことだろう。 怪しげな自費出版ならともかく、天下の岩波文庫にして、このようなことがあるのだなあ。 まあ、それだけ中国語の音韻史というのは近寄りにくいのかも知れない。

 ところで、上の『中国名詩選』の解説の意図は、仄声が続き過ぎてみっともないので、 古来「四百八十寺」の「十」を入声でなく平声で読む習慣があり、 日本でもそれゆえ「シヒャク ハチジュウジ」ではなく「ハッシンジ」と読むのだという点にある。 もっとも平仄などというのは絶対的な規則ではないので、この詩でも無理に平声で読む必要はないと、 小川環樹氏は述べている。氏の「“南朝四百八十寺”の読み方について」(『中国語学研究』所収、もと1961)はこの問題を論じたもので、音声の逆進同化などにも触れて、非常に面白い論文である。 せっかくなので、詩の全文を挙げておこう。

千里鶯啼緑映紅
水村山郭酒旗風
南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中


類推(2018.9.15)
 だいぶ前に壊れたパソコンの電源を入れてみたら運よく起動したので、古いファイルをあさってみた。 すると、20年ほど前のメールがいくつか見つかって、過去の自分が書いた文章を新鮮な気持ちで読んだ。
 以下にコピーしたのは、1998年2月15日付で友人T氏宛てに送信したメールの一部分である。前段にはエスペラントの参考書の 紹介などがあったが、いまその部分はカットした。言語学でいう「類推」がテーマになっている。 文から察するに、この頃T氏との間で、可能補語の特異な形式が話題になったようだ。 「講得通」の反復疑問形として通常の「講得通講不通」ではなく、 「講不講得通」という形式を使っている例があって、私が「可不可以」などへの類推だろうと言ったことへの補足説明のようだ。
 なにしろ20年前の文章で、「一年級」や「ラ抜き言葉」の例も今となっては古めかしいが、あえてそのままにしてある。

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 最後に「類推」のことについて。音韻変化にせよ類推にせよ、言語が変化するのはその体系が開かれていて完全に閉じていないからです。言い換えれば、どの言語も完全な円(あるいは正方形や三角形)ではなく、一部分が破れていたり、でこぼこであったりするわけです。ましてや異なる言語との接触があれば、それは円と四角がぶつかるようなものですから、ますますいびつになるといえる。しかし言語は常に閉じた体系、完全な形状を求めつづける。そこでさまざまな変化が生じるというわけです。それでは一通りの変化が完了すればそれで終わりかというと、そうはいかない。なぜならばAというルールの体系化はBというルールを侵してしまうことがあるからです。例えば、次のようなルールを考えてみましょう。

 ルール1:数字の「一」の声調は4声の前で2声に、それ以外は4声に読む。
 ルール2:順序を表す場合の「一」は常に1声で読む。

 この二つのルールがあるおかげで、一年生は悩まされるわけですね。一般に音声や文法上のルールと意味の区別のルールでは後者の方が後からできたルールですから、この場合もルール2の方が後からできたルールと言えるでしょう。しかしルール2の存在は明らかにルール1を侵しています。可能補語の場合も同様です。

 ルール3:動詞句の否定は「不」を前置する。
 ルール4:可能補語の否定は「不」を「得」に替えて挟み込む。

 この場合もルール4の方が後からできたルールですが(可能という意味を表すためのルールだから)、ルール3を侵しています。

 ルール2やルール4は、意味の体系をより完全にするために生まれたルールでしょうが、それによって音声や文法の体系を破ってしまったことになります。このように言語の体系は永遠に閉じられることがないのですが、それでもその体系を何とか閉じようとして、また様々な変化が生じるというわけです。

 「類推」によって生じる変化というのも、実用性の乏しいルールをなくしてしまうことだと考えてよろしい。日本語における「ラ抜き言葉」も同様で、一段活用の可能形「見られる」「食べられる」が「見れる」「食べれる」になりつつあるのは、「書ける」「読める」など五段活用の可能形への類推ですが、そもそも一段活用においては受動と可能が同形であるというルールそのものが今では必然性に乏しいのでしょう。

 長くなりましたが、要するに中国語における可能補語の否定形も、その形が生まれた当初は通常と形式を異にすることによって特別に不可能を表す意味を持ち得たものの、徐々に必然性の乏しいルールになりつつあるのではないか、ということです。特異形態というのは特別な意味を持たせるのには役立つが、あまりにもそれが一般化してしまうと、今度はその特異性を保つ必然性を失うのではないか。それが可能補語の正反疑問文において、汎用性のあるルール3の適用によって「講得通不講得通」を生じ、さらに重複部分の削除により「講不講得通」の形式が出てきた理由ではないか。前回はそのように考えてみたわけです。ほとんど妄想ですが。

 余談ですが、ルール1とルール2に揺れの見られる例として「一年級」があります。以前は4声が普通でしたが、最近は1声とするテキストが増えてきました。

 長々と書きました。また面白い話題があったら教えてください。では。
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復刻版序(2018.9.15 『パスパ字漢語資料集覧』2014より転載)
 今から20年ほど前に小数部をコピー製本して頒布した『パスパ字漢語資料集覧』を今回そのままの形で復刻することになった。1994年1月、富山大学人文学部にパスパ文字および『蒙古字韻』をテーマとした四名の卒業論文が提出され、それらの資料部分を統合したのが『パスパ字漢語資料集覧』である。卒業の記念として生協に製本してもらって4人に渡したものであるが、同時にこの分野に興味のありそうな研究者数名にもコピーをお送りした。意外にも反響は大きく、コピーが欲しいという声を多く頂いたが、かなりの分量があり、なかなか全てに応じることはできなかった。この度、愛知県立大学の吉池孝一氏から復刻版刊行の申し出があり、ありがたくお受けすることにした。20年前に学生たちの作成した資料ではあるが、パスパ文字漢語に興味をもつ人たちには今なお有用であろうと思ったからである。

 『元史』「釈老伝」によれば、パスパ文字は1269年に「一切の文字を訳写する」ために公布されたものであるが、そのうち漢字音を記したパスパ文字は13世紀の漢語音韻を知るための恰好の材料となっている。声母は形式上、中古音の濁音声母を保存しているように見えるが、これは一種の“歴史的仮名遣い”というべきもので、実際の体系を反映したものではない。一方、韻母は当時の北京音を如実に反映する。注目すべきは、宕摂・江摂・梗摂・曽摂の入声韻において、白話音に相当する音形のみが見え(「各g(a)w/kau/」「徳dhij/təi/」など)、文言音に相当する音が一切見えないことである。この状況は朝鮮資料の『洪武正韻訳訓』の俗音や『老乞大』『朴通事』のハングル注音の左側音(これらはいずれも15世紀半ばの北京音と見なし得る)も原則として同様であり、北京語の文言音が明代初期以前には存在しなかったことの確たる証拠である。『老乞大』『朴通事』の右側音(16世紀初頭の北京音)に至ってやっと文言音が大量に確認されることになる。14世紀末に形成された南京官話音が15世紀後半までに北京音に影響を与えた(=南京官話音の模倣によって文言音が生まれた)結果と考えられる。

 パスパ文字漢語の中心たる資料はロンドンに唯一の写本を存する『蒙古字韻』であるが、この書がいかにして作られたかについては不明な点が多い。私はかつて『蒙古字韻』の成立に『五音集韻』が重要な役割を果たしたと述べたことがある(cf.中村雅之(1993)「『蒙古字韻』と『五音集韻』」『中国語学』240)。この結論それ自体については今でも考えに大きな変化はないが、その論拠とした部分については、一部修正されなければならない。旧稿では『五音集韻』と『蒙古字韻』との類似点として次の3点を挙げた。
  @音節の配列順序(見母に始まって日母に終わり、喉音が暁匣影喩の順)が完全に一致する。
  A「夢」「目」「謀」が明母でなく微母になる。
  B収録漢字の配列が似ている。
 以上のうち、@とAは有効であるが、Bは削除しなければならない。今では寧忌浮氏の一連の論考により、『蒙古字韻』の収録漢字がほぼ『新刊韻略』から採られたことが明らかになっている。
  寧忌浮(1992)「《蒙古字韻》校勘補遺」『内蒙古大学学報(哲学社会科学版)』1992年第3期.
  寧忌浮(1994)「《蒙古字韻》与《平水韻》」『語言研究』1994年第2期.
  寧忌浮(1997)『古今韻会挙要及相関韻書』,北京:中華書局.
 それでは『五音集韻』と『新刊韻略』がそれぞれどのように『蒙古字韻』と関わるのかというと、この問題の解決はさほど簡単ではない。

 熊忠『古今韻会挙要』(1297)と崔世珍『四声通解』(1517)には『蒙古韻略』という書が頻繁に引用されている。『蒙古韻略』は現在伝わっていないが、パスパ文字による表音を備えたものであり、現存の『蒙古字韻』と密接な関係があったと想像される。遠藤光暁氏は『蒙古韻略』の体例が『蒙古字韻』とは異なり各声調毎にパスパ字注音が表示されていた可能性を指摘し(cf.遠藤光暁(1994)「『四声通解』の所拠資料と編纂過程」(青山学院大学「論集」第35号) 、私もそれを支持して、いくつかの論拠を加えた(cf.中村雅之(2003)「四声通解に引く蒙古韻略について」『KOTONOHA』9)。『蒙古韻略』が各声調毎にパスパ字注音を付したものであったとすると、伝統的な韻書の体裁をとっていた可能性があるが、収録漢字が『新刊韻略』に一致することと考え併せ、『蒙古韻略』とはまさに「蒙古字(=パスパ文字)」の注音を付した『新刊韻略』を意味する書名であったかも知れない。その後、『蒙古韻略』があまりに大部で利用しにくかったため、簡便にパスパ文字の綴りを検索できる索引として『蒙古字韻』ができたということであろうか。もっとも、『蒙古韻略』は勿論のこと、原本『蒙古字韻』でさえ見ることのできない現在、明確な結論を出せる段階にはない。

 現存の『蒙古字韻』ロンドン写本は、原本『蒙古字韻』そのものではなく、増補や修訂を経ており、かつ複数の伝本のつぎはぎであることが分かっている(cf.吉池孝一(2014)「原本蒙古字韻的構擬」『KOTONOHA』134)。また、現在ではロンドン写本が唯一の伝本であるが、18世紀後半の段階では中国の古銭収集家たちが『蒙古字韻』を利用して、貨幣のパスパ文字銘文を解読しており(cf.吉池孝一(2007)「清代のパスパ文字研究」『愛知県立大学外国語学部 紀要(言語・文学編)』39)、さらに19世紀前半にも羅以智が元代の刊本を実見して跋文を書いている(cf.吉池孝一(2004)「「跋蒙古字韻」訳注」『KOTONOHA』22)。しかし清末の混乱の中で他の伝本は佚し、20世紀にはロンドン写本がただ一つの伝本になった。あいにくこの写本には少なからぬ誤写があり、照那斯図・楊耐思『蒙古字韻校本』(北京:民族出版社,1987)の校訂を参照せずには安心して利用できない。しかしながら、当初意図されたパスパ文字漢語表記の字形や綴り方は、この十全とは言えない写本によっても十分に確認(あるいは類推)できる。例えば「休」の字音をパスパ文字で「hiw」と綴った碑文があるが、これが誤記であることはロンドン写本の「heiw」という綴りと比較して明言できるのである。

 本書は20年前には「パスパ字研究会」の編集発行という体裁になっていた。今回の復刻にあたり、責任の所在を明確にすべきだという吉池氏の要請に応え、中村雅之主編とした。その当時資料を作成した中村(洲崎)寿光、得能圭子、谷川由香里、藤原(五十嵐)真弓の4名には真摯に卒論に取り組んだことに敬意を表するとともに、指導教官としての充実感を与えてくれたことにあらためて心よりの感謝を申し述べたい。 (2014年11月18日 中村雅之)


多言語な世界(2018.9.13 中村靖子編著『交響するコスモス』松籟社 2010.所載)
 言語という物差しで世界と歴史をとらえる時、最も興味深い対象はチンギス・ハーンとその子孫たちの築いた大帝国であろう。十三世紀に広大なユーラシア大陸に覇をとなえたモンゴル帝国は、その領内に多くの民族と宗教を抱え込み、種々の文字と言語が交錯する世界であった。

 モンゴルの古い歴史書は、三つの言語によって綴られている。第一はもちろんモンゴル語であるが、ウイグル文字モンゴル語による原本はすでに失われ、『元朝秘史』と題された漢字音訳本(万葉仮名のように漢字の音を利用してモンゴル語を記したもの)のみが現存する。第二はペルシャ語で記された『集史』(原題はアラビア語)であり、第三は中国語(すなわち漢文)で書かれた『元史』である。

 この三資料だけでも、モンゴル帝国の多言語性を示して余りあるが、より直接的に実感するには一枚のコインを眺めればよい。
四体字銭
 俗に「四体字銭」と呼ばれるこのコインは、上にパスパ文字(十三世紀に公布されたモンゴルの公用文字)、下に(異説もあるがおそらく)ウイグル文字、右にアラビア文字、左に西夏文字で、それぞれ「至元通宝」という中国語の音を表している。つまり、いずれの文字もここでは中国語の発音を示す。数ある多種文字併用コインの中でも、四種の文字で一つの言語が記されるのは極めて珍しい。

 モンゴル時代に交通と商業が発達したことは今では広く認められているが、そのような時代の隆盛は多宗教および多言語への寛容と無関係ではない。モンゴル時代を精密に跡づけようとするならば、約二十種の言語と格闘しなければならないと囁かれるのは、あながち誇張ではないだろう。漢文資料あるいはモンゴル語資料のみによって多言語のモンゴル時代を解読できるはずがない。

 言語は思考を表現する手段であるが、逆に言語によって認識や思考が影響を受けるという考え方がある。いわゆる「サピア=ウォーフの仮説」である。この説を支持するか否かに関わらず、我々は経験的に、新たな言語との接触が異なる価値観の受容につながることを知っている。多言語な世界に生きる者は必然的に多様な価値観にさらされ、複眼的な認識を余儀なくされる。近年のモンゴル時代の探求が新たな歴史観を生み出しつつあるのも、多くの言語資料に触れた結果にほかならない。


JK若菜とアラサー葵(2018.9.8)
---元気な高校生の若菜ちゃんとクールな国語の葵先生---

若菜:アオイ先生、明日の授業で奈良時代の和歌のことをやるって言ってましたけど、万葉仮名の説明なんかもあったりします?

葵 :ないけど。

若菜:えー!ワタシ思いっきり期待してたんですけど。

葵 :------変わってるわね。万葉仮名に興味があるの?

若菜:書道部の先輩に聞いたんですよ。去年、アオイ先生の授業で万葉仮名の話があって、めっちゃ面白かったって。

葵 :ふーん、それは初耳だわね。ほとんどの生徒はつまらなそうな顔してたわよ。そういう生徒相手に話すのも結構しんどいのよ。それで今年はなし。

若菜:ふふっ、先輩の話だと、万葉仮名はとっても面白かったけど、その後の音韻史の話がちょームズいって。アオイ先生の話が熱を帯びるほどこっちのマブタが重くなるって。

葵 :ほらね、だから今年はなし。

若菜:いやいや、ワタシむしろ音韻史の方の話が聞きたかったんですよ。

葵 :おやまあ、あなた相当変人ね。

若菜:まあ、正確には、音韻史そのものに興味があるっていうより、なんで昔の発音がわかるのかっていう素朴な疑問なんですけどね。

葵 :たとえば?

若菜:えっと、先輩に聞いたんですけど、秀吉や家康の頃には「母」が「ふぁふぁ」みたいに発音されてたとか、吉田兼好が『徒然草』を書いた頃には「父」が「てぃてぃ」という発音だったとか、これって本当なんですか?

葵 :そうね。

若菜:でも、秀吉とか家康って16世紀末〜17世紀初ですよ。吉田兼好なんか14世紀じゃないですか。誰かが過去に行ってテープレコーダーに録音でもしてきたんですか?

葵 :古い!!テープレコーダーって20世紀の遺物よ。私だって使ったことないし。でもまあ、記録したという意味ではテープレコーダーみたいな物かな。

若菜:記録---?「母」を「ふぁふぁ」って書いていたとか?

葵 :それはない。仮名で書くとしたら「はは」か「ハハ」。

若菜:でも、「はは」って書いてあるだけなら、それを「はは」と読んだか、「ふぁふぁ」と読んだか、分かりませんよね。

葵 :分からないわね。

若菜:じゃあ、記録があったってダメじゃないですか。

葵 :日本人の記録では駄目ね。

若菜:あっ!外国人の記録?アメリカ人とか?

葵 :愚か者!その頃アメリカは存在していない。とにかく外国人による日本語の記録ね。そういうのを対音資料という。

若菜:タイオン?

葵 :外国人が日本語の発音を自分たちの耳で聞いて書いたもの。もちろん、日本人が英語を聞いて書いたものとか、イタリア人が中国語を聞いて書いたものでも、全部対音資料になる。

若菜:16世紀の対音資料?------ああ、キリシタン版か!天草本のイソップ物語とかってローマ字で書いてあるんですよね。

葵 :そう。平家物語も天草本のローマ字版があるし、17世紀初には長崎版の『日葡辞書』や『日本大文典』もある。 『日葡辞書』では「母」を「fafa(〜faua)」と書いているから、それを信じれば「ふぁふぁ(〜ふぁわ)」ということになる。

若菜:じゃあ、14世紀の対音資料って?その頃にはキリシタン版はないだろうし。

葵 :中国に『書史会要』という本があって、その中に色々な文字の字母表が載っている。インドの文字やモンゴルの文字などに加えて、日本の「いろは」もある。それぞれの仮名に漢字で発音の注記が付いていて、「ち」には「啼 又近低」とある。細かい説明は省くけど、要するに「ち」の発音は「啼[di]」又は「低[ti]」ということ。濁音の時は「ディ」で清音だと「ティ」というわけね。

若菜:どうして濁音の発音まで?

葵 :江戸時代以前は濁音を示す濁点は必ずしも付けられていないの。「ち」と記されても、清音の時も濁音の時もある。いずれにしても、『書史会要』の著者が聞いた日本語では「ち」という仮名は今とは違う発音だったことになる。

若菜:それで「父」が「てぃてぃ」になるのか。その「啼[di]」とか「低[ti]」って中国語の発音ですか?

葵 :正確には14世紀の長江下流域の発音。

若菜:えっ!そんなことがどうして分かるんですか?

葵 :この資料は日本語にとってだけでなく、中国語にとっても対音資料になる。というよりすべての対音資料は双方向と言うべきね。『書史会要』には「ち」のように清音と濁音の二つの発音が記されている例がかなり多い。それらの濁音に当てられた字を真に濁音で発音する方言は長江下流域に集中している。その上「か」を「楷」「な」を「乃」のように北京語で-aiとなる字を-aの注記に使っている。これも長江下流域の特徴ね。

若菜:でも北京語だって14世紀には同じ特徴を持っていたっていう可能性は?

葵 :ない。14世紀にはモンゴルの文字で北京語を記したものや、漢字(北京語発音)でモンゴル語を記したものなど豊富な対音資料があるから、その頃の北京語の発音は九分九厘分かっている。ちなみにそれらは北京語だけでなくモンゴル語の資料でもある。対音資料は双方向だから。

若菜:へえ、対音資料は双方向か。

葵 :対音資料も対訳資料も双方向。だから、『日葡辞書』も17世紀初の日本語を知るだけでなく、その当時のポルトガル語を知る資料にもなる。

若菜:なるほど。対音資料こそが過去の発音を知る鍵なんですね。じゃあ、奈良時代の対音資料は?

葵 :万葉仮名。

若菜:おお、そこにつながるのか!---ん?でも万葉仮名って日本人が日本語を書いているんだから、対音資料にならないのでは?

葵 :そうね。『古事記』や『万葉集』の場合、日本人が書いたものだから対音資料にはならない。でも『日本書紀』は日本人の書いた部分と中国人の書いた部分の二つの群に分かれる。中国人の書いた部分をα群、日本人の書いた部分をβ群という習慣よ。そのα群の歌謡に用いられた万葉仮名は対音資料になる。中国人の耳で聞いた日本語の発音を漢字(中国語発音)で記した資料ね。

若菜:それを使うと8世紀前半の日本語の発音が分かるんですね。

葵 :完全には分からない。第一に、一般的な問題として、対音資料は一つだけでは不十分で複数の対音資料を参照できることが望ましいけど、8世紀の日本語を知るための対音資料は今のところ日本書紀α群しかないの。第二に、個別の問題として、対音資料では表記者の耳で聴き分けられない音声は当然書き分けることもできない。8世紀の日本語ではエ段の「け」や「め」などが二種類に分かれていたのだけれど、中国語にはそもそも単母音の[e]が存在しないから、二種類の「け」や「め」を正確に写し取ることは不可能。だから、たとえ漢字で書き分けていても、実際の正確な発音は分からない。

若菜:そうか。でも16世紀末の日本語はキリシタン版という一群の対音資料だけで、「母」が「ふぁふぁ」という発音だって分かったんですよね?

葵 :いや、本当はあれだけでは分からない。キリシタン版のローマ字はポルトガル式表記なのだけど、ポルトガル語にはそもそも[h]の発音がないから、理屈から言えば、「母」が当時[haha]だったとしても、ポルトガル人には[fafa]に聞こえたという解釈もありうる。

若菜:ええ?結局分からないんですか?

葵 :実際には他の資料も利用できるから大丈夫。例えば14世紀の『書史会要』でも「は」の発音を「法[faʔ]」としている。中国語には[h]と[f]の区別があるから、『書史会要』の表記は信用できる。まあ「母」が江戸時代前期まで「ふぁふぁ」のような発音だということは確かね。それに有名な室町時代のなぞなぞがあるの。正確な表現は忘れたけど、「母は二度会うが、父は一度も会わない。これは何か?」というようなもの。この答えは「唇」。「母(ふぁふぁ)」を発音すると唇が二度近づくから。このなぞなぞが成立するためには[haha]であるはずがない。

若菜:それ、おもしろい!でも、そんなナゾナゾがあるんだったら、対音資料を使わなくもいいんじゃ?

葵 :それはどうかな。このなぞなぞの解釈からは「母」が[papa]か[fafa]か[ΦaΦa]か決定できない。対音資料によって、[papa]が排除される。

若菜:[ΦaΦa]って?

葵 :今の日本語の「ふぁふぁ」の発音。英語や中国語の[f]のように上の歯を使う発音ではない。キリシタン版に見える「fafa」も実際には[ΦaΦa]という発音を聞いて記したものだと考えられている。

若菜:ふーむ。音韻史ってなかなか奥が深いですね。

葵 :いや、今日話したことはほんの入り口。これ以上進むと、鬱蒼とした森の中から出られなくなるわよ。

若菜:出られなくなるとどうなるんですか?

葵 :高校教師になって好きでもない古典を教える羽目になる。

若菜:それは------考えちゃいますね。

葵 :でしょ。はい、さっさと部活に行きなさい。


書評:中野美代子著『砂漠に埋もれた文字----パスパ文字のはなし』(2018.8.31)
 今では絶版だが、古書としては比較的流通しており、Amazonなどでも入手可能。 以下の書評は『KOTONOHA』第2号(2002年12月1日)からの転載である。
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 他の書物と同様、この書にも多くの長所といささかの短所がある。 まだ読んだことのない人には一読をすすめ、すでに読んだ人にはその記述について若干の注意を喚起しつつ、紹介することにしたい。

 初版は1971年に塙新書の一冊として出版された。 この書によってパスパ文字なるものの存在を知った人も少なくなかったと思われるが、どれほど売れたかは定かでない。 1994年のちくま学芸文庫版に記されたご本人の「あとがき」によれば、「地味ながら意外に好評を得」たものだったらしい。

 この書の最大の魅力はパスパ文字というものの歴史と研究に関する総体を提示した点にある。 とりわけヨーロッパの学者の成果を紹介したくだりは何度読み返しても楽しい。 もちろん、中には「???」と思う記述もある。 たとえば、第2章第3節「ジャワから出てきた貨幣」において、ポーティエが貨幣のパスパ文字を「大元通宝」という漢字音を記したものと解読したことについて、 「この解読はそんなに困難ではない。なぜなら、その表面に漢字で「大元通宝」と書いてあるため、裏面のパスパ字母を一つ一つたどれば解読は簡単なのである。」 と述べている。 しかし現存する大元通宝は私自身も数枚持っているが、いずれも片面にはパスパ文字が記され、もう片面には何も記されていない。 つまり19世紀半ばにおいては、このちっぽけな貨幣の解読もそれほど「簡単」ではなかったと思われる。
 また、音声・音韻について述べた個所(とりわけ「o」と「n」を表すパスパ字の異体字に関する記述)には残念ながら賛同しかねる論が多い。

 さて、この書について触れておかなければならないのは、初版本と再版改訂版では内容がやや異なることである。 再版のちくま学芸文庫版では、初版本にはなかった項目が2箇所追加されている。 第1章第1節「スクロヴェーニ礼拝堂より」と第5章第5節「日本の海に沈んだ管軍総把印」である。 これ以外の部分については若干の追記があるほかはほぼ同内容である。

 追加された項目のうち前者は、14世紀初めのイタリア人画家ジョットの描いた「キリスト伝」の中に服の縁取り模様としてパスパ文字らしきものが描かれていることについて述べたものである。 模様それ自体はかなりぞんざいに描かれているので、文字として正確に読めるような代物ではないが、形態は確かにパスパ文字に似たものを含んでいる。 興味を引かれるのは、中野氏がこの模様を貨幣のパスパ文字を真似たものと推定していることである。 ジョットの文字模様の中に「r」に相当するパスパ文字が全く見えないことを根拠としている。 漢字音を記した貨幣のパスパ文字ならば「r」がないのは当然であるし、何より貨幣ならばジョットが手にする可能性があったであろうというわけである。 推論としては見事なものだと思う。

 もう一つの追加部分である「管軍総把印」についての記述は、まことに遺憾ながら、この書の価値を大いに下げてしまったと言わねばならない。 問題の発端は1981年に長崎県で13世紀の元寇の際のものと見られるパスパ字印が発見されたことにある。 中野氏はこの印を「管軍総把印」と解読し、1981年7月9日付『北海道新聞』に発表した。 一方、1981年7月24日付『週刊朝日』にも佐々木猛氏によって同じく「管軍総把印」と解読された結果が掲載された。 問題はパスパ文字のローマ字転写方式が寸分違わず同じであったことである。 中野氏の表現によれば、「これらgọnおよびb(a)という、私特有の表記法が、佐々木猛氏の「解読」表にそのまま登場したのには、私もいささか驚いた。」ということになる。 要するに、あたかも佐々木氏が自分の解読を真似た(あるいは盗んだ)と言いたげである。 しかし、この記述を読んで「いささか驚いた」のはむしろ読者の方であろう。 第一に、中野氏が用いた「gọn」や「b(a)」という表記は決して「私特有の表記法」などではない。 著名な言語学者である服部四郎氏がその著『元朝秘史の蒙古語を表はす漢字の研究』(文求堂1946年刊)において提示したいわゆる「服部式転写」である。 およそパスパ文字の研究にたずさわる者は必ず服部氏の著作を読まねばならないし、中野氏も注釈にその書名をあげているからには読んだに違いない。 にもかかわらず「私特有の表記法」と主張するのは、それこそが「驚き」でなくて何であろう。 とはいえ、このような勘違いは我々自身もどこかで経験することがあるかも知れない。 謙虚さを失ってはいけないという教訓である。

 いろいろと述べたが、パスパ文字というものに興味のある方はぜひ一読願いたい。モンゴル学と中国学の広大な領域への格好の入り口になること請け合いである。


重紐の紐は声母?(2018.8.19 「いろいろな話」2018.3.27<細かいこと>より抜粋)
 中古音の中心資料である『広韻』に、「重紐」と称される現象(というか状況)がある。 例えば、平声支韻の「奇(渠羈切)」と「祇(巨支切)」はどの方言でも同音であるため、まるで同音の音節が重複して登録されているように見える。 このようなペアが『広韻』全体では60例以上あり、今では「重紐」と呼ばれている。そこで、なぜ「重紐」と名付けられたかが問題となる。

 平山久雄氏の「中古漢語の音韻」(『中国文化叢書1 言語』所収、大修館、1967年)では、 「このようなpairは、反切系聯の結果では下字が系聯してしまうことが少なくない。 その場合には、同一声母が同一韻母と重複して結合している観を呈する。声母を<紐>ともいうので、したがって<重紐>と呼ぶのである。」と説明する。 太田斎『韻書と等韻図1』(神戸市外国語大学・研究叢書52、2013年)も「この名称は声母に、「紐」という言い方があるところから来ている。」 と記す。

 私にはどうしてこのような説明がなされるのか理解できない。 「紐」がかつて「声母」の意味で使われていたことがあるのは事実であるが、「重紐」の「紐」が声母を意味するとは思えない。 「重紐」の本質は『広韻』に別々の小韻として登録されているペアが一見同音に思われるものであるということ、 換言すれば、同音の小韻が重出している(かに見える)ことである。決して声母が問題の本質なのではない。

 『広韻』に先立つ『切韻』系韻書の唐写本を世に知らしめたのは王国維であるが、 彼の「書巴黎国民図書館所蔵唐写本切韻後」(『観堂集林』所収)では「小韻」を「紐」と称している。 「蒙紐」(=蒙小韻)、「洪紐」(=洪小韻)のような表現があるし、また「紐末」(=小韻末)に増加字があるとか、 「紐首」に何の字を置いているというような表現があるから、「紐」が小韻の意味であることに議論の余地はない。 つまり、「紐」は小韻のことで、「重紐」は「重複した小韻」あるいは「(同音の音節が)重出している(かに見える)小韻」と解釈するのが妥当である。